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私の芸術作品の鑑賞方法

「工房構成員の甲斐凡子から親方への質問」シリーズです。

今回は【親方ってどういう風に芸術作品を観るの?】という質問です。

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工房構成員の甲斐凡子

「以前、知り合いの工芸作家の人に

【どうしてニヘーさんはアート作品なんかを、それだけ深く分かるの?初めて観るもの、聴くものであっても、どうしてそれだけリアリティを持って“分かる“の?】

と、聴かれた時があってさー、答えたんだけど、あの人がその解説で分かったどうかは不明・・・」

という話をした時に

「親方、なにそれ、わたしもそれ聴きたい」

と言うので、出た話です。

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私が、そういう物事を分かるのか、分からないかは知らないけども、私は私なりの鑑賞方法が明快にあるよ。それは私だけのものではなく誰でもそういう風に鑑賞出来る方法だけど、私の鑑賞方法と、それによって得られた感想は、学校や本から美術教育を受けた人たちからのウケが悪いというのは最初に言っておく。笑

まあ、それはともかく、

・・・まず前提として・・・例えば・・・何かしらの絵画を観る時を想定してみよう・・・

それが一流以上の絵であるなら、独りよがりに描いてある事は無いんだ。「芸術は自己の感情の純粋な発露だああっっ!」ってだけの思いつきレベルでは描いてないんだよ。一見、激情に流されたかのような絵でもね。

ここで言う「一流以上」というのは、社会的に評価のあるもの=一流以上という意味ではなく、その絵の性質が一流以上という意味だよ。社会的に人気がある作家や絵でも二流、三流なんていくらでもあるからね。

本当の画家は、観る人に感じてもらいたい事を、そこに定着させたい美を、あらゆる工夫を凝らして描いている。とても誠実にそうしてある。いじらしいまでに。

「社会が望む芸術家像」に合わせた芸術家の演技・芸風に騙されている人が多いけどさ。実際には本当の芸術家は地道にやってるもんだよ。創作に関しては、ね。そうでなければ、あれほど練り上げた作品を大量に描けるわけがない・・・って普通に考えれば分かる事なんだけどね・・・。そういう面でも、一般社会は芸術家を色眼鏡で観ているんだよね。

ただ自分の感情を垂れ流したいだけなら、絵を描くなんて面倒くさい事、続けられないじゃん。現代ならTwitterで毒を吐いている方が楽じゃん。だからそういうTwitterアーティスト(笑)が沢山いるだろ。

垂れ流し系のモノでも偶然良品になってしまう場合もあるけど・・・酷いTwitterアーティストでも、時にハッとするような言葉を発する事がある・・・そういうヤツ。でも、それは一般化は出来ないから今回は触れない。パクツイって事もあるしね。

良い芸術家であると同時に酷いTwitterアーティストも多いけどなあ。そういう人は創作に資質と才能があって、かつ創作には真面目だけど、人格がアレな人なんだよ。人間の精神は分裂しているものだから、それも普通な事だけど。

ただし「分裂したイカレタヤツだからこそ、芸術が出来る」というのは全くの間違い。イカレタヤツに、たまたま芸術の才能があっただけ、というのが正しい。

話がズレた。笑

・・・前フリが長かったけども「一流以上の絵であるなら、独りよがりに描いてある事は無い」という前提を把握しておく事が大切なんだ。

で、実際に観る時には、

目の前の絵を「仔細に観る事は必要」だけど「読み取ろうとしてはいけない」んだよ。それはむしろ作品鑑賞の妨げになる。
芸術鑑賞における伝達は、だいたいが瞬時に、置き換え無く直接に行われるんだよ。だから読み取ろうとしてはダメなんだ。
「置き換え無く直接に」そこはとても重要なところだ。絵で言えば「絵は絵で表現されて、絵のまま他者へ伝達される」んだよ。絵を一度言葉に置き換えて分かったつもりになっても意味が無いんだよ。
伝達は瞬時に行われる場合が殆どなのだけど「伝達された内容を心が受け止めたり、内容を理解したり、吸収したりするのに時間がかかる事は良くある」。だから、例えば子供の頃に観た絵で、頭では理解出来なかった作品なのに何故かずっと気になり続けていて、大人になってから「あ!」って時が来る事もあるわけ。

絵を読み取ろうとしてしまうと、どうしても自分の過去の記憶の方に観察の重心が行ってしまい、目の前の作品の鑑賞ではなく、他人や本からの知識の方を主に観る事になってしまうんだ。観なければならない対象が目の前にあるのにね。

・・・そういう鑑賞方法だと「目の前の絵を、過去知識を使いレ点方式で確認作業する」ようになってしまうから、目の前の作品と「直接やり取りする事」が出来なくなるんだ。結果、核心部分に鑑賞者の感覚や目が届かなくなる。

それは「自分の過去の知識のフィルター越しに芸術作品を観ている」ようなもので・・・全身を防水の半透明のゴムで覆った状態で水の中に飛び込んだって、その水を直接にどういうものかは感じられないだろ。その水は冷たかったとか熱かったとか、それぐらいの事しか感じられなくなってしまうんだよ。

その水が冷たい熱いというのは別に水の本質ではないからねえ・・・

そもそも、絵画ならその絵画でなければ表現出来ない事を作者は伝えようとして制作しているわけだから「資料を読み取るような方法では受信不可能」じゃん。

かといって、予備知識があって悪い事は無いよ。予備知識があるからこそ、その芸術作品への理解が深まる場合もあるからね。勉強は多いにするべきだし、いろいろな体験を可能な限りするべきだ。ただ、その知識や体験が観察の邪魔にならないようにする事が必要なんだよ。

ではどうするか?

その作品をただ観て、自分の心に映ったものを観るんだよ。

その際に、分かろうとする必要はないし、分かろうとすると歪みが出るからダメなんだ。考えるな、感じろっ。何も感じなければそれはそれでヨシ。笑

別に芸術作品が分からなくても死にやしないんだしさ・・・

でも上から目線や態度で良いという意味では全く無いよ。「目の前の絵が分からない、何も感じない、としても全く動じる事は無いよ」という意味。分かろうとすると、より一層、過去知識に意識が行ってしまうから、それを避けるため、という事。

これは音楽であろうと小説や詩なんかでも同じ。文章を読むタイプのものは、もちろん「読む」わけだけど「変に意味を読み取ろうとはせず、ただ読み、自分の心に映ったものを観察する」んだ。
私はあらゆる「創作的人為」に対してそうやって「対面」する。「心に映す」そして「それを観る」ところまでは一切、何も間に挟まない・・・とは行かないけども、極力何も挟まない。芸術鑑賞が私個人のものの段階では、ただ受け止めるだけ。何も判断しない。芸術作品の鑑賞ってそれだけで充分なんだよ。それだけで充分精神的に効果があるんだよ。
それを元にして、社会に何か発信する、という段階になるといろいろな工夫や組み立て、そして判断が必要になる・・・そこからは、私の「人為」になるからそうなるわけ。
そうやって鑑賞して、特に私の心に映るものもなく、映っても「悪い違和感」のあるものであるなら、私はそれ以上深追いしない。その時の私に必要無いから分からないんだろうし「悪い違和感」のあるものに関わる必要も無いし。でもそれは、自分の過去知識による「判断」ではないんだ。判断ではなく「そこから離れる」というだけの意味。
「違和感」というのは「良い違和感」というのもある。それはだいたい、自分が芸術作品によって刷新されたその感じに慣れていないから起こる。だから、それはそのまま受け取る。でも、それも「知識で判断する」のでは無いんだよな。全く新しいものは、知識で判断出来ない事が多いからね。芸術的伝達は知識を挟まない「直接知覚」なんだよ。
他人に説明する際に言葉に置き換えると、その観察行為と受容に時差や分離があるように観えるけども「鑑賞時の全ての行為はほぼ同時に行われる」感じかな。全体が連動している感じなんだ。

・・・で、どんなに世の中で名品と呼ばれているものでも、私が何も感じないとか「悪い違和感」を感じたら「私にとってはそう」なの。

私は芸術鑑賞にあらゆる権威を持ち込まないんだよ。
だって、芸術「鑑賞」ってそういうもんでしょ。その芸術作品が自然に公共性を帯びる程の素晴らしいものであっても「鑑賞」というのは完全に個人のものなんだよ。自分と作者と芸術作品の関係性で成り立つ世界であって、そこに他人の価値観を持ち込んだら意味が無いじゃん。そんな事をしてはダメなんだよ。もちろん知識の否定ではなく「他人の意見を参照する事はあっても、それで観る事はしない」ようにするんだ。
繰り返すけど、それは「オレ様」的な態度じゃダメよ。事実として「鑑賞」とはそういう構造であり、それに則る事がむしろ芸術や美に対して謙虚だという意味だよ。

もちろんそれは私の個人的見解だから、他人にそれを強要する事はしない。

あ、そうそう・・・誤解を与えないように説明しておくけど、今説明している事は「芸術鑑賞や、精神的な問題の話」だからね。日常生活の実務の世界では、いろいろな判断の連続だよ。知識や経験が息づく世界だ。でも「観察時には判断をしない」のは日常生活の役に立つ部分がある。

とにかく人間は、何か観ようとする時に、特に初めて観るものの場合、目の前のモノから想起する自分の記憶・・過去知識の方を主に観てしまうものなんだよ。それは人間の基本機能として備わっているものだから仕方がないんだ。その性質に対する理解は必要だね。

人間には目の前のモノに危険が無いかを判断するために、過去の知識を検索する機能が本能的に備わっているんだと思う。肉体的危険だけでなく精神的危険もあるからね。

だから強制的にその性質を排除する事は出来ないし、そういう努力も良くないんだよ。

その機能を排除する事は出来なくても「それが起動しても無関係でいる事は可能」なんだ。起動はしても「反応しない」、反応してしまったとしても「判断しない」事でそれを防げるんだよ。←(とても重要な事)・・・訓練は多少は必要かもしれないけど。
最初に説明した通り、良い芸術作品は、ただ観る事が出来れば、観る人がちゃんと作者の伝えたい事を感じられるように出来ているんだよ。人間が自然に持つ警戒心をすり抜けて伝えたいものが伝わるように作ってあるんだ。だから、芸術作品を読み取らないでも良いんだよ。読み取ってはいけないんだ。

というわけで、

【過去知識で測らず、判断もせず、ただ作品と対面して自分の心に映ったものを自由に観察する】

これが正しい鑑賞方法。

それだけで良いんだよ。良い芸術作品ならそれだけで観た価値はあるんだ。ちゃんと効果もあるんだよ。

例えば薬を飲んだ時に、その薬がどういう仕組みで効くのかって知らなくてもちゃんと効果あるだろ。そういうものなの。芸術作品は。

しかし、多くは

【自分が無自覚に受けたいろいろな影響や、自分の思い込みなどを自分の個性と勘違いしていて、その思い込みを振り回す事が自由な鑑賞だと思っている。】

・・・これをやってしまう。

「思い込み」って「自分が美術を勉強して来たという“自負”」なんかも思い込みだよ。それはかなり芸術作品の鑑賞の邪魔になる・・・その自負は、正に芸術鑑賞の時に諸感覚にまとわりつく半透明の分厚いフィルターとなる。

親方、でも、名作を目の前にして自分の心に何も映らなかったら私は感性が鈍いのではないか?勉強が足りないんじゃないかと不安になりますよ・・・
うーん、そりゃ、その時の自分には必要無いモノだから映らないんじゃない?その作品は、自分の遺伝子と相性が悪いのかも知れないし。体調によっても変わるしさ。ただそれだけ。変に分かろうとしない方が良い。後から分かるようになるかも知れないし、一生分からないかも知れない。そんな未来の事、誰にも分からないし、分からなくても支障は無いよ。

そこで無理して分かろうとするのは、今必要の無い食べ物をむりやり食べるようなものだからね。そんな事したら、健康に悪いじゃん。芸術作品はひとつだけじゃない。仮に、目の前にある名作といわれる芸術作品から何も感じないとしても、周りを観ればいくらでも素晴らしいものがある。他に「その時の自分に合うもの」があるよ。

いわゆる芸術作品から何も感じられない時期なら、草花や樹、空や海、何でもいいから、自然物と触れてみれば良いじゃん。少なくとも、気分は少し軽くなるでしょ。別に芸術作品に何も感じなくても日常生活に問題なんて起こらないわけだしさ。

また少し話がズレた(笑)

人間は「名作といわれているものが分からなかったら恥ずかしい」とかそんな理由で無理して芸術作品から何かを感じようとするものだよ。人間は社会的な動物だからね。

分からなければ「保留」にしておけば良いんだ。そこでも「判断しない」というのは大切だよ。それは、心の問題云々ではなく「技術論」だと把握しておいて良いよ。
「保留」にしておけば、後から分かる事もあるしね。少なくとも「空白であるべき場所に、違うものを入れ込んでしまう事によって起こる害は防げる」んだよ。無理して芸術作品への「回答」をつくる必要は無いんだよ。学校のテストじゃないからね。そういう事をしてしまうのは「芸術の誤用」で、感覚や精神に悪影響があるんだ。
本当は何も感じていないのに、感じない事自体に不安を覚えて「変にどこかの誰かが言った感想をなぞったり」「自分の思い込みを目の前の作品にぶつけて理解した気になっている」のは最悪なんだ。人間はとりあえず分からないものに過去記憶を結びつけて分かった事にして安心したい性質があるけどね。そこは耐えろ。笑
とはいえ、何度も言った通り、一流以上の芸術作品は、観る人がどうであれ、何かを伝達して来る。
しかし、観る人の心が自分に伝達されたものを受け入れるかどうかは別の話。

・・・本物の芸術作品であるなら、それは陽光のように、観る人たちに同じように届く。

だからこそ、反応が人それぞれになるんだ。

植物の種に陽光が当たって育つ際に、同じ種族の種なら、だいたい同じ傾向に育つけども、個々の成長はそれぞれになるだろ?芸術の本質や美によって受ける影響ってそういうものなんだよ。

芸術作品を鑑賞した人、皆が同じ意見を言うのが、芸術作品による伝達の成功ではないんだ。
むしろ、受け止めた人の感想が、人それぞれ違うけども、それぞれなるほどと思える適切なものになる、ようするに「鑑賞者自身の個性を引き出す」ような結果になる事が多いんだよ。自分に起こったそれを正しく観られたなら、新しい視座を得られる事が多い。それが、鑑賞者それぞれに起こるんだ。凄い事だよね。

・・・そういう効果が、優れた芸術作品にはあるわけだけど、その受け止めた何かをそのままに観て、そして心に受け入れられる人が少ないんだよ。人の心は、簡単に新しいものを受け入れたりはしない。前に言ったように、肉体的な危険を避けるため、そして精神的な危険を避けるようにそういう設定になっているんだ。

芸術作品を観る事によって刷新された自分自身を観察する事が出来る人は本当に稀だよ。それって鋭敏な感覚と知性が無いと出来ないし、精神的に面倒な事だからね。そういう事に気づいたり、気づいて受け入れるには、精神体力が必要だから。まあ、ただ鑑賞者であるならそこまで追求する必要は無いけども、創作者であろうとするなら、その精神体力は鍛える必要があるなあ・・・

芸術愛好家の自分の精神がせっかく芸術作品によって刷新されたのに、その事実を受け入れないなんて事があるのか?ってみんな聴くけどさ、あるんだよ。ほとんどそうじゃないかなあ?ってぐらいにさ。

「自分の美術学習への自負がある場合」にそれが良く起こるんだ。

しつこく言うけど「学習」が悪いのではなくて「自負」と「盲信」が悪いんだよ。

芸術作品によって自分に精神的な刷新が起こった・・・その変化は、人それぞれ違う表れ方をする、というのは前に言った通り。

でも、自分の学習への自負や、知識への盲信があると「習った事とは違う」「自分が知っているものとは違う」だからこれは間違いなんだ、おかしい事なんだ!ってなってしまう事が多いんだ。

せっかく、素晴らしい芸術作品によって自分の精神が刷新されたのに、それを自ら排除しようとするんだよ。そういう場合は、むしろ芸術の影響が害になることすらあるんだ。

逆に「習った事と同じ事が自分に起こったから、これは素晴らしいんだ、自分はその境地に達した!」なんて勘違いもする・・・別にその人のレベルが上がってそういう境地に至った、というのではなく自分でそう思い込んでいるだけなのに。それは芸術作品ではなく、自分の思い込みの方を観ているわけ。

面白いよね。

「一流以上の芸術作品から受けた影響は人それぞれ違う表れ方をする」という本質を知らないからそうなるんだ。

仮にその構造を知っていたとしても自分にそれが起こると不安になるから、人間は過去知識のどれかと結びつけて「編集/こじつけ」をして、安心しようとするわけだけど。

だから、芸術作品から受けた影響をマトモに認識するのは不安なものなんだよ。でも、その不安こそが、新しい世界に立たされている事であって、芸術作品鑑賞の重要な効果のひとつなんだ。これが前に言った「良い違和感」ね。

少し言い方を変えて繰り返すけど、

芸術や美は「実際に人の精神を変える」わけだけど、その事実が自分に起こっているのに、それを認めない・・・それは自分が頑張って学習した知識や経験によって自己の変化が妨げられてるって構造なんだよ。

あるいは、せっかく精神が刷新されたのに、過去の知識のどれかと結びつけてしまって同質化し、せっかくの新しいものを陳腐で古臭いものに引き戻してしまう・・・

皮肉なもんだよなあ。自分が学習したせいで、中途半端に理解は深まり、しかし、だからこそ、深部には届かない。

彼らが信じているのは「自分の過去に得た知識」であって「今、機能する、生きている芸術や美という事実と発見」じゃないんだよねえ・・・自分の知識への検索能力はあっても自らに起こった新しい発見を受け止める能力・・・感受性は失ってしまったんだよ。

強く言いたいから、また言うけど、

これは学習や知識自体が問題なのではなく「学習への自負」や、人間が元から持っている「新しいものへの恐怖」「変化への恐怖」などの「心の保守性」が起こす問題なんだよ。この構造は知っておいた方が良いと思うな。ある意味正しい教育が必要って事だ。

多くの「美術を学習した人」にそれが起こっているように感じるな。私の経験だと。

まあ、

一般的な鑑賞方法として良しとされている方法だとこういう事は教えてもらえないからしょうがないんだけどね。

一般的な鑑賞方法・・・それは、前にも言ったけども、解説を観て、作品を観て、答え合わせをするように観ていく方法だね。それだと、みな同じ感想を持つわけ。それはどこかの誰かが決めた感想へ行き着く方法なのだから。

自由を標榜する芸術作品を観た感想さえ、どこかの誰かが決めた正解があるなんて皮肉だよなあ。その方式だと教える方も、教わる方も楽だよね・・・だけど、それだと芸術は心のためのものと言いながら鑑賞者個人の心は置き去りだ。

みんなが同じ「回答」を得る・・・一見、それは正しいように観えるけど、芸術鑑賞においてはダメなんだよ。芸術作品の持つ大きな効果は「既知からの脱出」なんだし、芸術作品の鑑賞の意義はみんなで同じ答えを得る事ではないからね。むしろ、芸術の刺激による新しい自己発見の方が重要だ。

まあ、何にしても、芸術作品やらなんやら言っても、所詮は人為なんだよ。神がつくりたもうた完全なる自然物ではない。

だから、結局、作者の精神と、鑑賞者の精神のやりとりなんだ。それが時にとんでもない高い境地に行ったりする。それが自然物ではなく、創作的人為の面白さなんだよ。

・・・長くなったからまとめよう。

何かしらの作品を目の前にしたら、ただそれを観る。ぼんやり全体を観る、なんとなく気になる詳細を観る・・・音なら、ただ音を聴く。本を読むならただ読む。そうやっていると、その作品によって自分の心に何かしら生まれるもの、映り込んで来るものがあるのを発見する。それを判断を挟まずに良く観るんだ。この「観る行為」は瞬時に行われたり、長期間に渡って行われたりと・・・いろいろになる。時間の問題ではない。芸術鑑賞における時間の要素は、伸びたり縮んだりするのが面白いところでもある。
とにかく芸術作品を目の前にした際に、自分の心に起こる事、映るもの、それを「判断をしない事」。過去記憶が起動しても、それで判断しなければ、悪影響は少なくなるんだよ。これはとても大切な事。知識や経験を使う事が悪い事ではなく「それで測定し判断する事」によって目の前の芸術作品が観えなくなるからそこに注意という意味だ。
芸術作品を目の前にして、何も心に映らないとか、悪い違和感を感じるなら、深追いする必要は無い。判断を挟まずに、意識から外して離れれば良い。
で、そうやって芸術作品を受け止められれば最終的に、その作品から受ける独自の感覚があるのを発見する。自分のその時のレベル、コンデシィョンなどによって・・・その時々で、受け止められる大きさや種類が変わるのも面白いけどね。そこで自己発見が出来る。名作の場合は、汲んでも汲んでも枯れない井戸みたいに、対面する度にいろいろ新しい発見がある・・・
それが、その作品から受ける“何か”で、あり、それが核心部分なんだ。
その「鑑賞」は説明すると時系列的になってしまうが、だいたいは、全体がひとかたまりに連動して行われる。

一般的にはそこまで感じられたら充分。

それは絵画であれば絵画でなければ伝達出来ないものであって、他の表現方法では伝達出来ないものだから、言語化は出来ないわけだし。

しかし、プロの表現者であるなら、その言葉に出来ない何者かに対して言葉や他の分野の表現方法で切り込んで行って、その作品から受けた感覚の本質を変えずに違う表現が自分に出来るか、というチャレンジはあって良い。

そこでは、判断や知識や経験を駆使して・・・「人為によって産み出す」事になる。自分がそこで産み出したものが自分にとって正解なのかの確認は「判断のない観察」によって行われるんだ。判断よりも素早い「直接知覚」でピン!と来るようならそれは正しい。今、社会に理解されなくても、後に理解されるようなものが出来上がる。

そんな風に、新しい何かを発見出来ることも多い。特に、優れた芸術作品からなら。

そういう創作的増幅も、優れた芸術作品ならではだな。

ただ漫然と眺めて、その世界に漂い楽しむ・・・それは一般の人ならそれで良いけども、評論家や作り手がその態度では名作を自分化は出来ないね。もっと踏み込む必要がある。

まあ、とにかく私の場合は普通の人たちよりも、芸術や美を信用しているんだよ。とりあえずは、全面的に信用してただ身を委ねる。実際にはひどいものが殆どなんだけどね。笑 でも、ものすごい宝石が、時々見つかるからさ。

芸術作品の核心は、作者と、その人が産み出した芸術作品と、鑑賞する自分の三者が交錯した間にあるんだよ。その作品自体が芸術ではないんだ。その芸術作品自体を読み取ろうとしても理解出来ないんだよ。

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と説明したのでした。

もちろん、いつものように「私の経験から見いだした方法」ですので、誰かから教わったものではありません。あくまで自分流です。ちょっと原始仏教の教え的ではあるな・・・とは思います。


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