スケッチには完成した絵とは違う魅力がありますね
仕上げた絵よりも、その画家のスケッチ帳や、下描きなどに、その画家の飾らない、素直な描線が出ていて、しみじみ良いなあと思う事があります。
例えば、下は、東京国立博物館に出ていた狩野探幽の「草花写生図鑑 秋」です。
狩野派といえば、絢爛豪華でいかにも城の装飾に相応しい感じの画風ですが、探幽はその代表的な画家のひとりです。
そんな探幽のスケッチの描線は、繊細で洒脱で、草花を観察しつつキレイだな、カワイイな、と感じて描いている感じが素直に出ていて、とても良いのです。
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まあ、逆に言えば、素晴らしい画家は仕上げた大作も良いし、ちょっとしたスケッチすらも良いのである、と言えばその通りなのですが、仕上げてしまった絵は、仕上げてしまったゆえに失うものもあるわけです。(それは形を変えて仕上げた絵の質を底支えするのでもありますが)
なんというか、仕上げた大作は、例えるならパーティなどに出席する際の、おめかしして胸を張った感じですが、このような気楽なスケッチは、部屋着で寛いでいる時に見せる、その人の飾らない姿というか、そういう感じと言ったら良いのか…
そういう姿は普段、身内以外は観られませんから、このようなスケッチ帳の公開は、貴重に感じてしまいます。(東博ではこのような展示も良くあるので実にありがたいのです!)
下は同じ時期に出ていた、黒田清輝のものです。
私は黒田清輝の作品にそれ程興味を持っていなかったのですが、こちらのスケッチ帳のものは、新鮮な感覚が素直に出ていて、しみじみと良いなあと感じました。
スケッチなどに関しては「このスケッチに出ている新鮮さ、ウブさを全く失わず、むしろ増幅して絵画を仕上げられたらなあ…」と考える人は多いかと思います。黒田清輝もそういう感覚を持っていたとか。
が、スケッチは本当にザックリしたメモ代わりで、作品として観るとあまり面白くなく、本絵の方で試行錯誤して作り上げて行くタイプの人もおりますね。
…例えば、クリムトなとはそのタイプだと思います。
日本人の場合は、俳句的な感じでスケッチをし、それで言える事は言い尽くせてしまうところがあるのかも知れません。
まあ、それはともかく、優れた画家のスケッチ帳は良き良き、というお話でした。