機能しないデザインなんて存在出来ない
先日、SNS上で「機能するデザインばかりではなく、機能しないデザインが必要なのではないか?」という論の引用を眼にしたのですが、その言わんとするところは分かるにしても、その論の「機能」や「実用性」の定義はどうなっているのだろう?と私は思ってしまいました。
(原著を読んでいないので著者の真意は私には分かりませんが)
私は、機能しないものは存在としてそこにあったとしても「それを認識する人間=当事者」がいないと、存在していない事になってしまう・・・と考えています。
普段は当たり前にあり過ぎて認識していないけども生命に直接関わるものの場合は「それが無くなった途端に苦しみを感じてその存在を思い知る」事もあります。酸素などはそうですね。無くなった事でその機能を思い知るわけです。
嫌なものでも「私を嫌な気分にする機能がある」からその当事者にされてしまうわけで…
人間が使うもの全般で言うなら「機能するもの=実用性のあるもの」として考える事も出来ます。
良く言われる「純粋に鑑賞するもので実用するものではないから純粋芸術」なんて解釈は私には全く意味が分かりません。いわゆる芸術作品は精神や感覚で明らかに実用しています。「審美的実用性と精神的実用性」が強いものが、いわゆる芸術作品と呼ばれるわけです。それに大金が動く経済活動を伴うのだからそれは経済的にも大きく機能しています。
また、審美的実用性だけでなく肉体的実用性のある美術工芸品や一般的工芸品には「使い心地」という審美性があります。使って喜びを感じるもの、それは「肉体を窓口に精神が感じる審美性」です。工芸品には、それが仮に実用性において機械よりも劣るとしても、その非合理的性に肉体と精神の喜びをもたらす実用性があるわけです。
「俺は他人のために芸術してんじゃねえ、他人なんて関係ねえ、俺は自分だけのために芸術してんだ」と作り手がうそぶいても、そもそも公開されていない芸術作品は社会に認識されません。自作をSNSなどで公開したり、ひとりでも他人に見せてしまえば「他人との関係」が出来てしまいます。社会的動物である人間は嫌でも人間関係に巻き込まれてしまい、その作品は機能してしまう事があるのです。もちろん全く誰にも響かず、その作品も作者も存在しない事になる場合もあります。
自分のためだけの作品を作る場合でも、その行為と出来上がった作品自体が自分を慰めたり喜ばせたり悲しませたりする機能/実用性を持ってしまうので、人間は機能や実用から逃れられないのではないでしょうか。
肉体的実用性も精神的実用性も実用の性質が違うだけで、どちらも現実的な実用性を持っています。そこに上下はありません。単にそれは実用性です。民藝では「観賞用ではない実用品が民藝云々」という提言はありますが、実際には自ら「鑑賞的実用品」という用語で語って飾り物も受け入れています。
・・・というわけで私は人為と人工物には「精神的実用品と肉体的実用品」しか無いと把握しております。
なんだかそういう風に書くと「所詮そういうもの」と下げた風に感じられるかもしれませんが「私の観察結果では、そういう性質のようです」というだけの意味です。
人間は「機能と実用」「経済」「人間関係」から逃れる事は出来ないのだと私は把握しております。