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工芸品や工業製品は所有者のモノになれる

工芸品や工業製品に特有の魅力は

【所有した人のモノになれる事】

だと、私は思っております。

これだけだと、コイツ何言っているんだ?になってしまいますが・・・

今回はそんな話題を・・・

*【この記事に書いている「工業製品」は、機械部品などを製造するような機械ではなく「個人で使うタイプのもの」を指しています】

       * * * * * * 

いわゆるアート作品の場合は、その「創作」は作者のもので、所有者にあるのは所有権だけ、という感じが強いので、工芸品や工業製品のように「丸ごと所有者のモノ」にはなりにくいように思います。

しかし工芸品や工業製品は「丸ごと所有した人のモノになれる」・・・もちろん、所有者が制作した人や会社の創作への尊敬を持った上での事ですけどね。

工芸品や工業製品のそういう特性が、私はとても好きです。

工芸品や工業製品は、使う人によって成長したり、ダメになったりします。

(アート作品も管理が悪ければダメになりますが、それは「管理・保存」の問題です)

だから、つくった人や会社はあるけども

「オレの湯呑」

「オレの車」

「オレの家」

・・・という感じで所有者は言う事が出来ます。

「それは、オレのもの」

と、言い切れる感じ。

モノによっては自分の好みに改造したり、調整したり、見かけを加工したりも可能ですから、余計にそうなります。

もちろん、全くいじらずにオリジナルのまま使う事もします。しかし、何かしらの意図は無くとも、手や身体での実用を繰り返せば、そのモノは使う人の色に染まります。

例えば全く同じ湯呑があっても、使っている人が違えば湯呑の育ち方も違うので、所有者は「オレの湯呑」を見分けられます。それぐらい「自分の色に染めやすい」のが、工芸品や工業製品です。

・・・所有者が、モノに直接的に、広く深く関われるのですね。

工芸品や工業製品には、そのような「創作上・実用上の両面において所有者が直接的に関われる“余白があります。

それは、いわゆる「工芸品とアート作品の違い」の、ひとつかも知れません。

工芸品や工業製品は、その存在に公共性があるものでなければならず、そのモノ自体は、手や身体で使える実用的完成品でなければなりません。(その公共性の範囲は“一般社会”のように広い場合もあるし“特定の用途”に作られた狭い場合もあるけども、どちらも公共性はある)しかし、上に書いたように、そこには精神的にも実用的にも、所有者が直接的にモノと関われる「余白」があります。

アート作品は、それが注文であろうと無かろうと、創作の発生が個人からであり、良い作品においては公共性は結果として得られますが、基本的には個人的な完結があれば良いわけです。

工芸品や工業製品とは違い、作品が制作途中のようなものであっても作者がそれ以上手を加えると表現したい事が鈍ると判断し、それで良しとなれば完成で、作品は完成品です。例えばセザンヌやマティスの絵に大胆な塗り残しがあっても全然OK!な感じで。

例えば絵画なら、絵画にあるのは鑑賞という実用性ですから、手や身体で使う工芸や工業製品の実用性のように、実用上の完成品でなくても許されます。

アート作品の場合は創作自体に作り手の聖域のようなものがあり、そこに所有者が直接関わってその創作を変えるべきものではない、という感じ・・・作者の聖域を所有者がどのように受け止めるか、という自由はありますが、直接的にそこには関われません。そこに、所有者が参加出来る「余白」は殆ど無いのです。

そういう面では、工芸品や工業製品と、アート作品の性質は反転したもののように違います。

大昔は、現代ではアート作品とされているものも工芸品的な扱いでしたので、絵画であっても他の人が描き足して変えてしまう例もありますが(もちろん全てがそうではない)現代ではまずそういう事はしませんよね。しかし工芸品としての絵画であるなら、それは「用途」を持ちますから、所有者は用途を優先してアート作品自体に手を加えて変えてしまうのもアリ、という事になります。その場合は創作性よりも用途の方が重要なテーマだからです。絵画であっても、所有者はその創作に直接手を下す事が出来ようになります。

(だから、いわゆるアートと工芸の分類なんて絶対的なものでなく、人の都合によって簡単に変わってしまうわけです。アート作品と工芸品の境界にあるモノもあるし、その境界線はあいまいで、かつ変動します。なので私は普段、いわゆるアート作品と工芸品や工業製品・・その他全て「人為の成したもの」という括りで分離させずに観ます。今回はそれぞれの特性を観るために、あえて分離させて考えているわけです)

工芸品も、その民族を代表する歴史的なモノ、というレベルになるとそれはその民族の共有文化財産のようなものになり、その所有者が「オレのもの」とは言えなくなる傾向があります。そうなると、そのモノ自体が固有の創作性を持ち、価値が公共化し、聖域化してしまうからでしょう。

しかし、例えば茶道の茶盌の歴史的名作などには、所有者はその茶盌に合わせた美しい更紗の布で包んだり、美しい箱を作ってその茶盌と関わろうとするのです。その茶盌自体に手を加える事はなくても、そこに所有者の痕跡を残したいと思うのですね。もっとその茶盌と近づきたい、感じたいと思う。茶盌は工芸品で実用する道具だからです。

油彩画にふさわしい額をつけるとか、日本画をふさわしい表具で飾るというのは上記のような「モノと直接関わる」のとは少し違う感じがします。それは絵の創作性を後押しする行為というか・・・

しかし、その絵画に個人的に深い愛情と愛着がある場合は、その愛情を表す行為としてその絵画を入れる容れ物を美しいものにする事があります。掛け軸などではそうしますが、油彩画などはどうなのでしょう?私は存じておりませんが・・・

表装した日本画は、工芸品に近寄りますね。油彩画でも、古い宗教画など、額縁なども含めて工芸品的な感じに観えます。

そういう面では「額装」「表具」というのは「アート作品と用途」をつなげる役割があるのかも知れません。これはこのテーマで改めて考えてみたいなあ、と今思いました・・・

しかし、何にしても、やはりアート作品は、一般的な工芸品や工業製品などよりは、所有者が直接関われる余白は少ない感じです。人はアート作品から強くいろいろな事を感じ、受け止めるわけですが、しかしそれは工芸品や工業製品よりも間接的にもたらされます。

そんなわけで、工芸品や工業製品と、いわゆるアート作品の特性の違いのひとつは「所有者が直接モノに関われるか、関われないかの違い」と言えるかも知れません。

最後にまとめますと

公共性を持ち、完成品である工芸品や工業製品と所有者との関わり方は、その性質と反対に個人的で直接的になる。

工芸品や工業製品にもいろいろありますが、工芸品や工業製品は、創作上も実用上も使っている人のモノになれる、というのはとても素敵な事だな、と私は思うのです。

【工芸品や工業製品と、その所有者は共に遊びの時空を飛行する】

・・・そんな感じ・・実に麗しいですね。


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