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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#職人

いつも全力でやらないとスグに堕ちて行きます

職人仕事・・・職人に限らず仕事人は、いつも100%からそれ以上の意識を持って仕事をしていないとスグに腕が落ちてしまいますよね。 修行中、あるいは独立してからでも、いつも自分よりも上のレベルの人がいる環境にいた人であっても自分ひとりになると途端に「現状の本来の自分」に戻ってしまう人が多い。上の人がいる時は、強制的に引き上げられているわけです。もちろん、逆に制約が無くなった事により修行中よりも厳しく仕事場をつくり、仕事自体も、より高度に成長させる人もおりますが・・・ ビジネス

新酒を作る事無く未来の熟成酒を語る愚

例えば、美味しい熟成シングルモルトスコッチを伝統文化系に例えてみると、常に次に出荷するための新酒を仕込んでおかなければならない=常に未来の熟練職人となる若い人たちを入れて育成し続けていなければならない、という事は誰でも納得される事と思います。 そうしないと次の12年もののシングルモルト、あるいはもっと古いもの・・・が出せなくなってしまうのは当然ですから。 もし新酒の仕込みをしない醸造所が「伝統的な本物のシングルモルトの未来」を語ったら、その醸造所の代表は狂っていると思うで

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

技法や方式自体を目的化・価値化しても創作的な質が保証されるとは限りませんよね

伝統に関わる何かしらの物や事、そして地域の特産品などの品質を一定以上に保ち続けるため、何かしらの決まりをつくり、それに正しく従ったものだけを正規のものとして認定する、というのは良く行われる事です。 その仕組み自体は良いものなのですが・・・ しかし、その決まりのなかの何かしらの技法や方式・・・その決められた範囲で数種の選択肢が許されているのに、一部だけを取り上げ「これだけがホンモノ」とし「それを行っているウチだけがホンモノで他はニセモノ」と、一方的に自分を上げ、他を下げる人

創作的部分も仕事でやるなら職人技術です

職人の世界で良くある事ですが・・・ 例えば、染物の分野において・・・ 藍を天然のものだけで起こして良い染を出来る職人さんがいたとして、しかしだからといってその人は具体的に文様の研究をし、文様染の技術を訓練したわけではなく、創作全般を学習し、訓練し、自分化したわけでもなく、天才でもない限り元に備わっている創作性は普通レベルの人と同じなのだから「良い文様染」「良い染物」に出来るわけないのに、なぜか「自分は元から創作性の備わった目覚めた人間だ」という態度で恥ずかしいレベルの酷い

基本的には心身ともに元気が無いと良いものは出来ない

先日、私の知り合いと対話して(直接会ってはいない)・・・面白い話だったので記録・・・ 最近、コロナの問題で会社が遅く始まって早く終るから、スタッフたちの体力や気力が回復して生き生きしててさ。時短営業で会社の経営は大変だけど、皮肉にもスタッフたちは人間としては覇気があるんだよ。消耗するルーティンをこなす毎日だと覇気が無くなるけど、心身に多少の余裕が出来ると仕事の精度は上がるし、未来に対するイメージを作る余裕が出てくるというか。 机上の空論的な本部の計画で、整合性の無い作業を

現役のプロであるために必要な仕事量がある

なぜ、いろいろな分野のプロがアマチュアの人たちよりも「しぶとく上手い」かといえば、アマチュアとは圧倒的に練習量と、仕事量が違うから、というのは単純でありながら重要な理由です。 例えば工芸作家さん系で、あまりに年間の仕事量が少ない人の場合は、やっぱり腕や感性は落ちます。(そのキレの無さや、朴訥としたシロウト感が良いという方もいらっしゃるので、その存在の否定ではありません) 人が何かしら作る際に、作者の、ゆっくりのんびり楽しく仕事をしたい、みたいな都合の良い気持ちには「モノが

職人技術だけでなく、創作的な部分も訓練しないと良い工芸品は出来ません

いろいろな和装の加工職人系の人が、創作的な方面へも乗り出して、いろいろ制作し、作品を発表することがありますが、それは多いに結構な事だと思います。 個人やメーカーのいろいろな試行錯誤やチャレンジが新しい何かを産み出すキッカケになり、業界に良い影響を与えるからです。 が・・・正直に言えば、ちょっと展示会の声がかかるようになっただけで、まるで大物芸術家気取りになってしまう加工職人さんには、ちょっと引きます・・・ 創作の実績が特に無いのに急にアーティストやデザイナーを名乗りだ

古典を扱う際には

私が古典を扱う際には、 「古典」を扱うということは「自分の師匠や、自分の前世代の有名作家の古典文様を使った作品を、さらにマネすることではない」と考え扱います。 伝統工芸系では古典と称しながら上記のようなものがとても多いのです。 私は自分が直接古典に触れて、そこから「新しくなにかを産み出すこと」が大切だと考えています。 そうすることによって「古の人と現代人との文化的出会い」が起こるわけで、それが伝統の面白さです。 さらに「古典の本質を増幅させるために再構築する」ことが

手作りでなければ出来ないことをやらないと

手仕事の染めと、機械の染めと、違いはいろいろありますが、 「意外なことに、手仕事の上手い仕事は、良く出来た機械製品に似る」 という事実があります。 例えば文様染の「精緻な手作り品」は、現代の良いプリントに、仕上げで少し手仕事によるブレをつくるだけで、見た目はほぼ「精緻な手作り品」と同じものが出来たりするのが、私たちのような手仕事屋には怖いのです。 手仕事には、不思議なところがあって「技術的に精緻なことを安定して出来るようになると、高度になるほど機械がやったみたいに平板

得意なことと、手慣れの危険

職人仕事において、例えば、とても細かい仕事が得意な人がいたとすると、その人にとっては、細かい仕事は苦ではないので、どんどん細かくしていきます。楽しいからです。 しかし、その手がけているものが必要な細かさを超えてしまうと、それは単にやり過ぎであって、モノを良くするために細かくする、手がけている作品が要求する細かさ、という必然から外れます。 そうなるとその細かさは「息苦しさ・ヌケの悪さ」になります。 そして、そのようなつくり手自身の楽しさ主導の制作姿勢では、その人の今までの

仕上げすぎないのも職人の腕

私は、技術や観察眼が未熟な職人仕事は嫌いですが(そのヘタさを作家性だとか個性とか主張するのも大嫌い)だからといって、必要以上に「仕上げ過ぎてしまう」のも、使う素材の力を弱めてしまうので注意が必要と考えています。 それはあらゆるモノ作りに言えることですが、特に工芸品や料理は、必ず、使う素材や技法の制約を強く受け、かつ、その制約はその工芸品や料理特有の魅力でもあるので、それが目立ちます。 工芸品や料理は、いわゆるアート作品と違って常に完成品でなければならない、という命題があり

手慣れ感のある仕事にしないために苦労する

職人仕事を長年やっていると、体が慣れて来るので、自然にうまくなって来ます。 (が、それには限度があり、加齢による劣化は当然あります。スポーツ選手ほど急激に表れませんが、同じく肉体をつかう仕事の特性から逃れることは出来ません) が、この「うまくなる」のは必ずしも良い面だけではなく、良い場合と悪い場合があります。 良くある「ウマイ仕事だけども手慣れ感があるいやらしい仕事」。。これはとても不快感のあるものです。 そういうのは、極上品にはなれません。 B級の上位ぐらいまでです