手慣れ感のある仕事にしないために苦労する
職人仕事を長年やっていると、体が慣れて来るので、自然にうまくなって来ます。
(が、それには限度があり、加齢による劣化は当然あります。スポーツ選手ほど急激に表れませんが、同じく肉体をつかう仕事の特性から逃れることは出来ません)
が、この「うまくなる」のは必ずしも良い面だけではなく、良い場合と悪い場合があります。
良くある「ウマイ仕事だけども手慣れ感があるいやらしい仕事」。。これはとても不快感のあるものです。
そういうのは、極上品にはなれません。
B級の上位ぐらいまでですね。
例えば。。。分かりやすい例なら。。。
経験の長い場末のジャズミュージシャンが、手慣れた感じで、かつ、あえてちょっと引いた感じ。。微妙に本気でやってない感を出し「ま、こんなもんでしょ」という感じで演奏したものとか。。。
そういう態度ではあっても、それは確かに長年演奏している、職人芸的に巧いもので、ただ演奏するだけでなく、ヒネリもあり、その人自身の工夫もあったりする。。。が、何か下品な感じ、閉じた感じ、人をナメた感じがする。。。
落語なんかでも、中途半端に巧い人から同じような感覚を受けます。
自分が積み重ねた技術をバリバリ羅列してドヤしまくる人もいますが。。。
そのようなものには音楽への愛や、演奏者自身が感じる音楽の喜びの他者への伝達はなく「こんな感じでやれば巧いって言ってもらえるんだよ」というものしかない。
ただ自分がミュージシャンであって、平民とは違う種族である、というような変な優越意識を感じます。
そういうものは、閉じた価値観のなかでは、評価があったりします。仲間内同士での、楽屋ウケ的な。。。
そういうものは「確かに上手いけど、つまらない仕事」「裏をかいた、さらに裏まで読めてしまう仕事」「巧いけど欲しくはない」「作者自身だけが満足するコダワリの仕事」。。。
こういう場に、職人は簡単に陥ってしまうものなのです。
ある意味「姑息に巧くならないように長年続けること」は大変です。
やっぱり「表現したいことがあって、それに過不足無い技術で作られたもの」が嫌味が無くて良いものだと、私は思います。
そこには新鮮さと、自然物の成り立ちのような摂理と爽やかさがあります。
それは、いつもしている仕事でも、愚痴を言いながらでも「常に対面している仕事と新鮮に向き合うこと」で成されることだと思います。
同じ仕事でも、毎度新鮮に向き合う。
職人としての私はその仕事に飽きていても、人間としての私は、毎度それに新鮮に興味を持って対面する。
そういう姿勢でいる必要があると思います。
また、現実的スキルとしては「あ、最近姑息に巧くなって来たな。。」と感じたら無理やりでも他のアプローチで仕事をするなどし「その仕事から一度外に出る」必要があります。
(自分で気づいたり、他人から指摘されたり。。。そのような意見を変な気づかい無く他人からもらえる環境づくりもスキルに含まれます)
感覚の鮮度を保つことが大切です。