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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#作品

私は創作物を暴力装置にしてはならないと考えます

私は 「分野を問わず人々にトラウマを与える事で鑑賞者が作品に揺さぶられたと勘違いさせる意図を持つ作品」 を嫌います。 それは創作者がやってはいけない事だと考えます。 「作品の素晴らしさに精神が揺さぶられる」 のと、 「その作品に実際には必要の無い人の精神を傷つけるタイプの、直接的なエロ、グロ、暴力、死、個人の精神の歪み…などを作品を介して突きつけられた際に精神が揺さぶられる」 のは、 内容は全く違うにも関わらず、精神の反応だけ観れば似ています。 ようするに創

今、現代美術とされている分野はゲームに似ていると思う

普通一般の人々が思い浮かべる「現代美術」というものは、その時代の「前衛」のような、まだ形式や評価が定まっていないものから、先進的かつ既に社会に受け入れられ機能しているものまでを含めた「新しいものを作り出そうとする意欲の強い、実験的要素も含む、今出来の表現物の事を特に分類して現代美術と呼ぶ」・・・そんな感じではないでしょうか。 私も含めた一般社会人にとってはそれで充分ですし、それで日常生活に困る事はありません。 * * * * * * * *  何かしらの創作様式や作品が

私にとっての最上の創作物

表現物の場合は 【作者が感じ、表現したい事が、全くロス無くそのまま他者に伝わるもの】 さらに 【作者ですら気づかなかったものが作品に乗り、相手に伝わるもの】 ・・・です。 それが私にとっての理想です。それは作品という物体ではなく「新しい生き物」のようなものです。 そういうものは、伝えたい100が相手にも100伝わってお終いではなく、伝わった何かは、伝わった人の内部でさらに育ち、そしてさらに多くの人に拡散されます。 作者としてはそのような作品を目指して日々活動する

技術と表現力のお話

人の観察眼などアテにならないものだ、と私は良く思います。もちろん私のそれも含めてです。しかし、そういうブレや適当さもまた、人為と人工物の面白さと思ったりもします。 何かしらの創作物が持つ表現力は「作者の技術の分だけしか出力されない」というのは当然の話なのですが、これが意外に人々に理解されていないのを経験上強く感じます。 細かく言えば、表現分野についてだけは、ナゼか魔法の世界だと思われているというか、魔法の世界と信じたい感じというか・・・ 【職人技術は長年の修練と学習が必

当工房の、作品制作の進行方法、並びに展示会の際の仕事の進め方

今回は、当工房「Foglia フォリア」では、日常の作品制作並びに個展や展示会用の作品を制作する際に、どのように仕事を進めて行くかを説明してみます。 (フォリアは和装染色品と絵画の制作・販売を行っております) なるべく具体的に書こう・・・と書き連ねていたら、長くなってしまいました・・・ それはともかく、 個展等で、まとめて作品制作する際には「日常制作しているものを溜めておいて出品する」のではなく、コンセプトを決めたり、時流を測った上で、テーマを決め、制作する事が多いで

表現の自由という美名で、やりたい放題に「表現を暴力として使う人たち」が苦手です

最近の(2022年7月)朝日新聞の、安倍晋三元首相に対する川柳問題は「表現の不自由展」と同じような背景があるように思います。 私にはどちらの作品も理解出来ません。 風刺的表現物自体は、もちろんあって良いものですし問題無いのですが、そういうものには高度な教養とセンスと、大きな愛情が必要です。また、そうでないと「鋭い風刺表現」が出来ないと思います。 Twitterなどで、芸術家、音楽家、落語家、演劇関係の人など(その他いろいろ)が、政権批判したり、誰か個人を攻撃しているのを

美に特性は無い

私は美を以下のように把握しております。 これはいわゆる学術的な美学に依存しない美の把握方法です。これは誰かの考えの踏襲ではなく、自分の目と精神による観察+この考えによる長年の行動+検証によって導かれたものですので、創作関係だけではなく、日常生活のなかで「実質的に機能する美の把握方法」と思っております。 ここで言う美は、きれいとか、美醜面の美しさ、というものではありません。芸術界隈の特別な何かではなく、美は実はどこにでもあります。自然のなかには必ず、人為・人造物のなかには時

私の芸術作品の鑑賞方法

「工房構成員の甲斐凡子から親方への質問」シリーズです。 今回は【親方ってどういう風に芸術作品を観るの?】という質問です。 ************** 工房構成員の甲斐凡子に 「以前、知り合いの工芸作家の人に 【どうしてニヘーさんはアート作品なんかを、それだけ深く分かるの?初めて観るもの、聴くものであっても、どうしてそれだけリアリティを持って“分かる“の?】 と、聴かれた時があってさー、答えたんだけど、あの人がその解説で分かったどうかは不明・・・」 という話をし

こんな時代だからこそあえて自作を作品と呼ぼうと思った

私は、基本的に、自分のつくるものは他人への説明のために便宜上「作品」と呼ぶ事はあっても、それを販売して生活している立場であるので「商品」と呼びたいところを、流石にそれは誤解を生みそうなので、着物なら着物、帯なら帯、絵なら絵(油絵、紙の絵、布絵、などと呼ぶ)と、ただ具体名で呼んでおりました。 普段、私がこのnoteで言明しているように、私はそれが芸術作品だろうが工芸品であろうが工業製品であろうが科学であろうが数式であろうがスポーツであろうが関係なくあらゆる人為において、そこに

レ点方式の採点では測れないもの

生き物に対しての良し悪しの判断は「レ点方式では“採点”は出来るが“良否の判断”は出来ない」というのがありますね。 生き物は、欠点こそが魅力になったりもしますから。 例えば、ダメ猫、ブサ猫だからこそ、何とも魅力的なんて事が普通にあります。 なのに、レ点方式で人だけでなく、生き物である作品、製品を判断してしまうことは良くあります。 そういう姿勢で、ものづくりをすると「美人ではあるけどナゼか魅力を感じない人」みたいなものが出来上がってしまいます。 例えば「演奏技術

頭を空にすると勝手に入ってくる

先日、工房構成員の凡と話をしていて 「配色とか、図案とか、絵とか、文章なんかをやっていて、先に進めなくなった時、時間的余裕があるなら、それは放置して翌日やった方が良い。一度、頭を空白にすることが必要で、空にすると、新しいものが勝手に入って来る」 「入ってなかったら?」 「そういう時もある」 「いつも空だったら?」 「そりゃ、その人にはその仕事の資質と才能が無いんだよ。笑」 仕事なんだから、資質と才能があることをやった方が世の中の役に立つ。

つくったものを社会に公開する際に責任が伴うのは当たり前

いわゆる、表現の自由、ということが良く言われますが・・・そんなことをつらつらと・・・ 自由は武器化する 例えば芸術家であるなら・・・ 充分に表現の自由があると言える日本の現状で、あまり過剰に「表現の自由」を主張する芸術家と、進歩的な方々を観ると、 いわゆる芸術家も社会生活をする、いち社会人ですから、芸術家だからなんでもアリ、とはならないのは自然ではないでしょうか?表現に特化した分野として、多少一般人よりも際どい所まで攻めるのが許されるとしても、過激な表現をしたとしても

最初から完成形があり、それを出力するだけ、が一番良い

制作で、鮮度がありながら行き届いたもの、落ちやアラの無いもの、ようするに 「魅力的でかつ落ちやアラが無いもの」 は、出来たものを修正して行くことによって、完成度が上がり、だんだんそうなって行く部分もありますが、だいたいは完成形でかなり明瞭にイメージ出来たものをスムーズに形に出来たものがそうなることが多いように個人的には思います。 仮にそれを産み出す前段階では苦労したとしても、キッカケを掴んでからは、完成形のイメージに引っ張られて行く感じで仕上がりまで自然に行った、という

再創作すること

以前、チェリストのパブロ・カザルスの本を読んでいたら 【クラッシック音楽は同じ曲を何度も演奏するわけだが、それは毎回「再創作」するのだ】 ということが書いてありましたが、それはいろいろなモノ作りにも通ずることだなあと、その言い回しの的確さに感心しました。 なにかしらの作品は「何度観ても新しい発見がある作品、仮に良く分からなくても、不思議と長年惹かれる作品」と「ああ、またこれね」というものに別れますね。 根本にあるアイデアや発想が、キチンと作品に盛り込まれているものは、