雑草とダマスクローズ
河出文庫に入っている、江國香織による現代語訳版『更級日記』を読んだ。
老境にさしかかった筆者が、源氏物語に憧れていた少女から書き起こし、物語にうつつを抜かしてきたことへの後悔と仏門への目覚めまでを綴った、900年以上も昔の日記文学だ。
「転勤族」の父親の娘として関東に生まれた少女の「移動」「上京」の物語として手に取ったのだが、通読してみて、いつの間にか「大都会に夢を託して生きてきたものの、本当に大事なことを見逃していたんじゃないかと気付く女性(わたし)の物語」として読んでいる自分がいた。
江國さんによる巻末解説で、「結婚、出産、夫、子供に関する記述の比重が少ない」ことが指摘されているのを読んで、考えた。
2024年に入ってから、わたしもnote(ここ)で久しぶりに日記を書いているけれど、そこから夫や子供に関する記述を排除して、純粋に「自分のことだけ」の日記を書くということが、今のわたしにできるだろうか。
菅原孝標女も、宮仕えをしていたのに辞めさせられて結婚してしまったことや、夫との関係が上手くいかなかったこと、寺院への参籠について夫から「好きなようにして良いよ」と言われたことについて書いたり、「はやく子供が大きくなるように」という願いを綴ったりしている(これは共感するところ大)。
しかし、比重は少ない。
孝標女にとって、『更級日記』を書く上で、夫や子供の存在はそれほどクローズアップしたいテーマではなかったのではないか、と見ることもできる。
だとすれば、これまでの、そしてこれまでの自分人生を考える時、また違った角度が見えてくる。
日々夫や子供のことで心乱され、思い悩んでいる様を気ままに書き付けている最近のわたしの日記。
その中から「自分のためだけに心を動かしている時間」を見出だすことはできるだろうか?
思い返してみると、例えばそれは、毎朝一杯のカフェオレを飲むこと、お気に入りのマグカップで色々な味のお茶を飲むこと、本を買うこと、本を読むこと、文章を書くこと、俳句や短歌を作ること、イベントの準備をすること、一人で外出すること、などであった。
どれも、日常の隙間に生えた雑草のような、ささやかな時間。
しかしどれも雑草であって、決して花瓶に咲き誇る薔薇ではない。
無理だとは分かっているが、それでも、雑草に甘んじたい訳ではない。
大輪のダマスクローズを二輪ほど、贅沢に手元に置いてみたい。
いつもいつも雑草ばっかりは、いや。
いつか必ずその時がくるよ、という慰めも、いや。
いま!ダマスクローズが欲しい。
もっと自分のためだけに心を動かそうと思う。
たまたま生えた雑草ではなく、わざわざ手に入れるダマスクローズを。
『更級日記』は、荒れ果てた庭にまつわる和歌のやりとりで終わる。
しかし、物語に耽溺した後悔を綴ったはずの孝標女が、その後『夜半の寝覚』や『浜松中納言物語』などの王朝物語を書いたという説もある。
孝標女も、密かにダマスクローズを咲かせようとするひとであったかもしれない。
🍩食べたい‼️