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建築を学んだ日々の苦労が、がんになった今活かされている

#想像していなかった未来

母子家庭で育った私は、自分一人の収入で弟と私を育てる母から、
「高校より上の学校に進学する分の学費は、悪いけど払ってあげられない」
と中学生の時に言われた。

中学生の私は、建築士かシステムエンジニアになりたいと思っていて、そのどちらだとしても大学に行くべきだと考えていた。

入った高校は県立の進学校で、バイト禁止で稼げない。
ソフトボール部に入った。

入学後まもなく、中学の担任の先生から電話があって、
「卒業生の中から返済不要の奨学金をあげる生徒を市に推薦することになって、枝本さんを推薦しようと思うんだ」と言われた。
本当にありがたかった。
その奨学金は、大学受験料と入学金になった。
その時の先生とは、大人になってから何度か飲みに行っている。

結局建築を選んだ私は、学費の安い国立に落ちて私立大学に通うことになる。

家から通える大学だったから、生活費は母に出してもらえた。
だが私立理系で教材費もろもろ年間150万円はかかる。
4年で600万円だ。

半分は無利子の奨学金で、半分はバイトで工面した。

無利子の奨学金は毎年教授の推薦状が必要で、1年生の分は高校で書いてもらったが、2年生以降は大学の教授に頼みに行かなければならなかった。

建築学科の担任をしてくださっていた教授はとても紳士的な方で、
「枝本さんの事情はよくわかりました。でも私はあなたのことをよく知りません。だからどうしても判断材料は成績になってしまいますがいいですか?」
と言われた。
建築学科は160人ほどいたので当然だろう。
「はい、どうぞよろしくお願いいたします。」と退室した。

約160人中4位の成績だった私は、無事に推薦状を書いてもらうことができた。
卒業時は少し下がって9位になったが、その教授は毎年推薦状を書いてくださったうえ、
「枝本さんなら試験無しで大学院に入れるから、大学に残りませんか?」
とお声がけいただいた。
ありがたいことだがこれ以上奨学金という名の借金を増やすわけにはいかず、丁重にお断りをしてお礼を申し上げて卒業・就職。

成績をキープしながら大学に通い、バイトをする日々はなかなかにしんどかった。
弟はと言えば、住み込みで新聞配達奨学生になって、専門学校に通った。
弟の方が大変だったろう。

私の就職先は住宅メーカーの設計。
当時はワークライフバランスなんて何?というブラック企業だらけの時代で、連日終電で帰ることもざらだった。

働きながらまず2級建築士を受験して資格取得するも、2年実務経験を積んでから受験できる1級建築士は手強かった。

毎年およそ合格率10%という国家試験である。

きつかったが4回目で学科合格、製図で1度落ちて翌年合格、無事1級建築士になる。

ところが私は、東京生まれ千葉育ちなのに、結婚を機になんの縁もゆかりもない愛媛に転居することになる。

そしてふたりの子の母になるが、上の子に持病があってひとりにしておくことができず、頼れる身内もなく専業主婦を10年以上続ける。

完全なペーパー1級建築士である。

子どもの持病は治療の甲斐あって薬も必要なくなり、ひとりで遠くまで行けるようになった。

さて。
仕事を始めようとなった時、自信のない私は事務のパートから始めた。

でもどこかでまた建築に関わりたい気持ちがあって、周囲に話していたら、知り合いの知り合いの紹介で、某大手会社とフリーランスの1級建築士として業務委託契約をして、建物点検の仕事をもらえることになる。
育児家事と両立できるフリーの仕事で、6年以上続けた。

そしてまた知り合いの紹介で、工務店で設計補助のアルバイトに採用される。
設計に関われるようになったのだ。

ところがその仕事を始めて1年、乳がんが見つかる。

半年かけて術前抗がん剤治療をすることになり、副作用で車通勤ができず退職。田舎では、車が運転できないといろいろなことがままならない。

頭はハゲたし、爪は黒くなるし、疲れるだるい、あちこち痛い、メンタルもやられる副作用。

でもなぜだろう。
何かやりたいのだ。
もちろん、大学進学した子どもたちの学費の心配もあってのことではあるが、できる範囲で仕事がしたかった。

だから、在宅でできる仕事を探した。
家ならトイレもすぐ行けるし、どうしようもなければ横になれる。

がんになる前から、クラウドソーシングでたまにライターの仕事も受けていたから、在宅ワークに抵抗はそれほどなかった。

そして現在、2社と業務委託契約をして在宅ワークをしている。

ひとつは不動産広告のお手伝い。
ひとつは住宅の間取り設計。

どちらも、こんな50歳のおばちゃんに仕事をくれたのは、1級建築士が効いているのだと思う。

「手に職をつける」とよく言うが、まさにそれだった。

働きながら建築を学んでいたあの頃は、正直きつい日々だった。
もちろん楽しいこと嬉しいこともたくさんあったけれど。

でもがんばってよかったと心から思っている。

想像していなかったこと
・千葉から愛媛に来た
・子どもの持病
・自分のがん

まあがんに関しては、ふたりにひとりはがんになると言うし、祖父と伯母が大腸がんになっているし、想像しなかったわけではない。

乳がんも、告知される3年前に自分でしこりを見つけていて、当初は悪性ではなかったから、経過観察していたのだ。

左胸全摘・脇リンパ郭清の手術を受け、放射線治療をし、再発リスクがまあまあ高かったので、10年ホルモン剤服用に加えて飲む抗がん剤が1年追加された。

現在抗がん剤4クール目、副作用はやっぱりきつい。

でも病気でもできる範囲でできることがあるのは、気持ちの上でもいいことだと思う。

無理は禁物で、それこそワークライフバランスっていうやつかもしれないが。

夢見た通りの未来じゃなくても、過去の自分のがんばりが、今の私を助けてくれている。

「悪いけど学費は払ってあげられない」と言った千葉にいる母が、今、東京の大学に進学した娘を置いてくれている。

がんばる私を応援したり、手助けしてくれるひとたちがたくさんいた。

子どもたちの未来が、大きくて素敵なものになるように、心から応援したい。

想像していなかった未来がまた来るかもしれないが、たぶん今の自分のがんばりが、未来の私を助けてくれると思って、前向きにがんばるのだ。


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枝本 幸
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