すべての人が必ず通る『人生の午後』について考える日
これって必ず通る道じゃないのー?
最近、そんなことを思っている。
養成コースをやっているのでもともと自分が『人を育てる』に関わっていることはわかっている。
でも、それは技術や在りかたを提供しているだけで、それ以上でもそれ以下でもなくて。
年齢を重ねて、自分がつくったスタジオや環境をどうするのがいいのかな?と考えてます。
いつまでも今と同じ体力でもないし、いつまでもみんながわたしについてきてくれるかどうかもわからない。
人生の午後。
まあ、午後というよりもう夕方だと思うけど、年齢的にそういう時間がきております。へへ。
残りの時間は今までよりはどう考えても短いだろう。というときに、わたしにできることはなにかな? なんて、ムニムニ考えてる。
いつまでも偉そうに「イチバーン!」っていってる場合じゃないのはわかってる。
そこに気がついたかー。ふむふむ。
なかなかえらいね!と自分をほめてあげたい。
なんて、そのへんもジワジワ整理しつつ。
でも、やりたいことはまだまだあるし、絶対に諦めないのだー!ヤー!
いくつになっても自分がやりたいことはやっていい。そう思ってる。
ただ、自分がやりたいことは、一緒に働く人を自分の思い通りにすることでもないし、自分の都合に合わせることでもない。
いつ、自分がいなくなってもみんなが心地よく、働くことができる『スペース』はつくっておきたい。それをお空の上からにこにこ応援できるような心境でいたい。
って、まだ健康だし死なない予定です。
とはいえ、そういう場つくりって、簡単じゃないし、すぐできるわけでもないからね。
スタジオは小さな家族。
みんなが心地よく暮らしていけるようにって、当たり前のようで当たり前じゃなくて。
立場的にはオレは親。
なんだけどもそのへん、『ヒトの親』を経験したことがないので子どものための無償の愛モードになるのがなかなか難しい。
でも、植物だって動物だって命あるものは必ずいちばん美しいときから静かに終わりを迎えるわけで、人間も同じだよねー。
それがいつかはわからないけれど、それでも悔いなく自分の持ってるものをバトンのように誰かに手渡せるように。
それができる環境や場所があるのだとしたら、とても素敵なことなのかもしれない。
言葉や意志が伝え合える、人間同士だからこそできるバトンの受け渡し。
こういうことって、歳を重ねるとすべての人が必ず考えることなんだろうな。
と、思ってますが、そうでもないのでせうか?
誕生日が近いせいか、ここ最近そんなことを考えてます。