その注意は"私"への否定じゃない
打たれ弱い。
もしも打たれ弱くなかったら、私はもっとできることがたくさんあるだろうとすら思えるくらいに。
怒られたり注意を受けることに対して、耐性が全くといっていいほどないのだ。
相手はそんな強い責めの気持ちを込めたわけではなくても、ちょっとした言われ方で涙を堪え切れなくなってしまう。
泣いて許されようなんて思ってないし、なんならそんな弱い女でいたくないと思っているのにも関わらず、身体がコントロールできない。
いくら手のひらに爪を立ててみても、口の内側を強く噛んでみても、その場を耐え切ることすら叶わない。
この前のコーチングでは、打たれ弱さに打ち勝つために、怒られたり注意を受けることをなくすよう行動することにした。
物事の目的を意識することで、相手から指摘を受ける機会をなくそう、というものだ。
だけどそれでは、問題は結局変わっていない。
パターン化して答えがわかっているものはある程度対応できても、絶対に例外はあるし注意は受けて当然な筈だ。
注意を徹底的に受けないようにする、ということはそもそもできない。
となるとやっぱり、言われても泣かずにいられる自分をつくらなければならない。
泣かないためにはストレス耐性を上げること、根本的に自分は大丈夫だと思えるようになることが必要だとは思うものの、なかなかそこが上手くいかない。
だけど、何がどうであれ、いいとか悪いとかなしに"私は大丈夫"な筈なのだ。
注意を受けるのは物事や目の前の事象に対してであって、自分自身に対してということは滅多にない。
ミスをしたらミスをした行為に対して注意を受けても、私という存在が否定されるわけではない。
ミスをしたことは悪くても、私は私で大丈夫だ。
新人研修のフォローアップとして位置づけられた研修で、アサーティブコミュニケーションについての講義を受けたことがあった。
あの頃の私は、そこで学んだことを全く理解できていなかった。
自分が打たれ弱さに変わらず物凄く悩んでいたにも関わらず、そこで言われた"注意はあなた自身の否定ではない"という言葉に対して、業務と結びつかないよくわからない研修を受けたように感じていた。
自部署に戻って「研修どうだった?」という課長に、役に立つのかわからなかったと、その頃は本気で返答してしまった。
今なら、あそこにとても重要な要素がいくつも含まれていたのだと、きちんと理解してそのために思考を変えていこうと、思うことができる。
それ自分を守るため、自分を大切にして不用意に傷付かないようにするために、必要な魔法のヴェールだった。
その時その場でわからなかったことも、今こうやってちゃんと生きている。
あの日のことを思い出しながら、もう一度打たれ強さが欲しいと言ってみたい。
どういう状態であれ、"私は大丈夫"だから。
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