「繕う」と「取り繕う」の差
おはようございます。
とい、です。
「繕う」に「取り」がつくだけで
だいぶ意味も印象も変わりますね。
中学校以来、針に触れたのは、
昨年のマスク不足が指摘された頃でした。
でも結局は、作ってみても歪で小さかったり、
普段に使えないようなものが出来上がり、
私はそれらの一切を部屋の片隅に追い遣りました。
その後、抑うつ症状が認められてから、
医師から告げられた「何も考えない」ようにする
という目的の為に始めたのが刺繍でした。
正直、当時の私にとっての刺繍は、
時間を埋めるものでした。
(刺繍に失礼🪡)
刺繍キットを購入し、
中学校で買った裁縫箱を出してきて、
不器用ながらに縫っていきました。
少しずつ進めていくと、
完成し、終わりがきます。
時にはnoteに写真を載せたりもしました。
それを家族に送ると喜ばれました。
けれども、何故だか満たされないのでした。
何故でしょう。
私は、薄々気付いていました。
(そこにオリジナリティがないから)
(時間を埋める為に針を入れているから)
(何も考えないことなど、出来はしないから)
それでも、
喜んでもらえたり、反応がもらえたりすることは、
とても嬉しいことでした。
励ましていただきありがとうございます😊
けれども、そんな針仕事も、
いつの間にか手に馴染んできました。
そんな折、
一昨年着た友人の結婚式用ドレスの裾にあるビーズを、
履き慣れないヒールで踏んで、
だらんとした状態のままだったことに気付きました。
手元には、綻びを直す為に相応しい色糸があります。
ドレスの裾と向き合います。
綻びを見つけては直す作業を繰り返すうちに、
小学校の頃のことを思い出しました。
私は小学5年生、プールの授業の季節でした。
担任の先生からプールサイドに呼ばれた私は、
タオルをすっぽり被って先生の質問に答えていきました。時折通るクラスメイトの視線から目を外すように。
「学校に行きたくない、と聞いたけれども」
と先生は言います。
プチ登校拒否を心配した母が、
先生に事のあらましを話してくれていたようです。
林間学校の班分けの時に、
自分の意見をうまく言えなかったり私は、
簡単に言えば、「仲間はずれ」と「梯子外し」を
足して2で割ったみたいな状況になったのです。
もともと入ろうと思っていた班には入れず、
反りの合わなそうな女の子と私、
そして(親から私にくっついておくように言われた、と語る)転入生の女の子の3人+男子3人班になりました。
今思えば、何を料理するか、について話合っていたのですが、私はなんと言おうか迷っているうちに、多数決となり、なにも言えずに話し合いが終わってしまいました。
そのうち「何あいつ!」ムーブメントが起こりました。
しょーもない手のひら返しが始まります。
もうどうでも良いことです。
でも、その時は狭いコミュニティの中で、
しんどかったのでしょう。
先生はプールサイドで私に言いました。
「そういう時は、ゆっくり考える方が得意なんだ、って言えば良いんだよ。」って。
私はまたプールに戻ります。
考えます、考えます。
潜ります。
(先生の言う通りなのかなぁ?)
また、気づくと
掌の上にはビーズと針が並んでいます。
ゆっくりと浮かんだ思い出を回想しながら
針仕事をします。
何箇所もあるので、
一回でうまくいかないこともあります。
でも、ゆっくり落ち着いて、
もう一度、もう一度と縫っていくうちに、
あの日もらった言葉は本物だな、と感じました。
破れたり、ほつれたりしたところを繕うことと、
取り繕うことは違います。
取り繕わず、素直に繕うことだって出来るはず。
ほらね、
直した痕は見えるけど、
でも私は私が好きなものを大事にしたいと思うのです。
先生あの時、
声をかけてくれてありがとう。
とい。