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自分自身へ、同じような症状で悩まれている方、またその周りの方々へ。 私が自分の抑うつ状態と向き合った日々のnoteをまとめます。「素敵な向き合い方」だと感じた時には他のnoterさんの記事も掲載させてください。(追記:時には一時的に相反する意見も載せさせていただくことにしました。) 鬱、抑うつ状態(うつ状態)、適応障害、心因反応など、聞き慣れない言葉だと思われる方も、そうでない方も、まだ無自覚なだけかもしれません。そうでないかもしれません。 インプット(または経験)したならば、アウトプットも怠らない方がいい。いつか、これらの兆候を自覚した時、誰かの役に立ちますように。 ゆっくり自分を大切に出来ますように。
40代に向けてほそぼそと、少しずつやりたいことをやってみる。そんな自分を勝手に応援、ときに反省。覚書のようなnoteです。
適応障害と診断されて早1年。 凸凹ライフも、周りの方々に支えられ大分平坦になってきました。 診察帰り、家に帰れず、公園で泣きながら食べた、おにぎりとジュースの味と、その時の気持ち〜現在に至るまでを忘れたくなくて、マガジン画像を選びました。 「復職」という言葉が出るようになってきた為、 それに向けて、一歩ずつ毎日を振り返りながら、 いろいろ試みてみようと思っています。 たわいもない話かもしれません。 けれど、こんなご時世ですから、当事者の方、周りの方々になにか感じていただけたらいいなぁ🌱 誰かが握ってくれたおにぎり🍙は、 元気の源です。
猫と私を中心とした記事をまとめていこうと思います。私の備忘録として。大切な猫達の記録として。
復職へ向けての第何歩目か。 リワークプログラムでの一日一日を大事に出来るよう、マガジンを作りました。 私にとって、興味のある方にとって、 ひとつの糧となりますように。
上半期もあと1ヶ月ちょっと。 今年の上半期は、社会人学生として学位を取得するために奮闘した。多忙だったのと体調が侭ならなかったのとで、今はほとんどの記憶がないけれど、noteや日々の記録にその様子が綴られているから、落ち着いたら読み返そうと思っている。 こういう振り返りは、こころの瘡蓋が自然に取れた時にやったほうが、平気でいられる。 だから本当にざっくり、ざっくりと思い返すと、抑うつ状態と診断されてから、4年余りが経っている。 「強いて言うならば、適応障害」とも主治医から言
「ぼんやりと過ごす」が最近の目標なのだけれど、あまりにもぼんやりしすぎていて、呆れられることが多々ある。1時間かけて目的地に着いたのに、休業日だったり、あてもなく歩いてしまったりする。自分自身にそんなに期待をしていないから、そういう出来事もあって当然と思っているのだが、他者から見たらそれは違うらしい。「いつも言ってるけど、調べてから出かけなよ」と言われることもしばしば。 調べてから出かけることは確かに素晴らしいことだと思う。でも、そういう前準備が苦痛になる時だってあるんだ、
本に囲まれている時間が凄く好き。ベッドの上に本を並べて、読まずにぼーっとする時間も。 よく父と図書館に足を運んだ幼少期を思い出す。私も父のように暇さえあれば図書館に行くようになるのだろうか。
私はマスク、いわゆる顔パック(以下、マスク)というものがあまり好きではない。この楽しそうにパックしている人たちのイラストを借りていながら何を言い出すのかと思われるかもしれない。 でも、これまで使い切れた試しがないのだ。肌荒れが酷くなってはじめて購入することが多いマスクだが、顔に貼り付けたまま何分間もぼーっとすることがなかなか出来ない。 そんな私に転機が訪れた(大袈裟)。 家の中に最近旦那さんが買って置いていった女性用「夜マスク」の大袋が落ちていた。 それは旦那さんがマス
夜になると細かい作業や探し物が出来なくなるのは何でだろう。イライラして、そんな自分に更に嫌気がさしてしまう。 いつからだろう。 夜が耐えられなくなったのは。夫婦の時間は朝晩しかないというのにイライラしがち。
薬ってすごい。 ドラマ・ブラッシュアップライフの中で主人公が薬剤師になる回があって、薬の飲み合わせや正しい服薬の方法を説明していた。 私はそれらをそこまで意識したことがなくて、温かいお茶で薬を飲んでいた…。これからは水で薬を飲もう。 夜中、鈍痛で目が覚めた。 身体の節々が悲鳴をあげていて、湿布やカイロなどをペタペタと貼って寝ているのだけれど、それでも凌げなかったようだ。 メンタル不調から身体の機能に支障をきたすことは既に経験済みなので、特になんてことはないのだけれど、眠れ
水溜りを覗き込むみたいに、心のなかを覗き込めたらいいのに。そしたら、そのなかに溜まった砂や小石が何なのか分かるかもしれないのに。 朝、布団から離れるまでにものすごく時間がかかる。 アラームが鳴って、それを止めて、 今日という一日のスケジュールを頭のなかに思い描く。 仕事に出かける日の場合は、絶対に出かけなければならないのか考える。それは次の日でもいいのか、誰かと約束していたのか、会議はあるのか。 仕事に出かけない日の場合は、そーっと猫に抱きついてもう一度眠りに落ちる。 仕
なんでもない日に心を満たすために買ったケーキ。 こういう甘さが沁みます。
頭が麻痺しているかのように、自分自身の言っていることと行動の整合性が取れない日が続いていた。周りの人が、一瞬ぽかんとして指摘してくれて、あ、と気付く。そんな平日を繰り返した。 頭の中をがらんとさせる為にコーヒーを啜った。試食が嬉しい。日曜日の終わりにやっと麻痺がとれた。
すごく曖昧な事を書きます。 9月までは時間に追われているような緊迫感のなか生きていた。常に成さねばならないことと時間とを天秤にかけながら過ごす感覚。 10月がはじまって、私は、時間に追い抜かれているような感覚のなかで生きている。腰を据えて打ち込まなければならないのに、軽快にあちこち奔走しながら情報収集しなければならず、やらなければならないタスクに対して身体も感情も付いてきていない。 直面するのは、内容が絞りきれていない「must」。 よく見えない遠いところにある的に向かっ
さぁ、頑張ろう!と思ったのに、身体がついてこない。瞼が熱くなり重くなり、腰が重くなり重力に負け、私の決意を容易く挫く。 そう、ベッドに横たわりながら、完全な敗北という余韻に浸っている。 なんのこっちゃ、おやすみなさい。
休日は特に、仕事の事を考えないようにする、という心がけ。 何となく仕事用PCを触ったりしてしまう。まぁ、ゼロにするってことは難しいけど、仕事と仕事じゃない時間の区分けをもう少し考え直したいこの頃。
今年一番買い物を楽しんだ気がする。しばらく本を買い足さなくていいかも。
足るを知る。そして、諦めるを知った。 Shihoさんに名付けてもらった「足掻き族」としては、この感覚を少しでも持てたことが凄く凄く嬉しい。 ベストを尽くした後は、いや、尽くせなくても、他人や場の空気にあとを任せることも一つの戦略かもしれない。 もっとゆるりとしていいのかも。
凹んでもいいから他人を信用してみることにした。ここでいう他人とは、私と顔見知りではあるけれど、なんだか距離を感じる人のことを指す。 頼む頼まれるという関係から、私はあなたの事を信用していますよ、と伝えていきたい。何気ない会話を大事にしたい。 生きる事に精一杯からの脱却を。
信頼していないのは私の方だった、と気付いた。いろんな場面で、信頼されてないんじゃないか、と思うことが重なっていたのだけれど、そもそも私自身の中に相手に対する猜疑心みたいなものがあった。 そんな相手を信頼するはずもない。 ありのままの私で接して、それでも駄目ならその時考えよう。