幸福のためには、絶望しなければならない

夜になると、答えのない問いがぐるぐる回る。
そんなことはないだろうか?
人生の意味、とか。幸福とは何か、とか。何のために仕事をしているのか、とか。考えたって何の足しにもならないことばかりを、である。

朝あれだけ冴え渡り、はつらつと知的活動に勤しんでいた自分が、さっぱり別人になってしまったようである。

答えのない問い反芻すると、脳の血管を堰き止められたようなひどく不愉快な体感覚で満たされ、心臓の鼓動は不自然に早くなる。

伏目がちになり、思考は自由さを失い、まるで溺れているような閉塞感と焦燥感だ。

考えがまとまらない。
そもそも何の考えをまとめたら良いのかもわからない。
漠然とした不安
なんとなく言語になって頭蓋骨の中を漂っているのは、今のままではだめだ。ということだけである。

幸福のためには、絶望しなければならない。

幸福でない状態にはつまり”不幸”が伴うわけだが”不幸”という言葉について私は、
「何かが満たされておらず、その不足が今後満たされる目処が立っていない時に人間が覚える感情、あるいはその状態」と理解している。

基本的に、不足している要素は常に複数あり、かつ複雑に絡まって人間の、あなたの不幸を難解なものにしている

不足の解釈を考える。
満たされた未来の状態満たされていない今の状態を比較したとき、今が受け入れられないなら、それは不足である。
言いかえれば、不幸を感じやすい人は未来に期待し過ぎなのだ。

今の自分は本当の自分ではない、本当の自分は、未来のどこかにいてそこに到達したら自分は幸せになれる。ということをただ漠然と考えているうちは、あなたの不幸は少しも軽減しないだろう。

そもそも、未来などないし、過去などない。あなたは自分に過去があったことも、未来があることも証明できない

英国の哲学者バートランドラッセルによる、「世界五分前仮説」をご存知だろうか。

簡単に言えば、今ある世界は全て五分前にできた。という仮説を誰も否定することができない、ということである。

「10分前には〜〜をしていた。だから自分はその話を否定できるよ」という人はちょっと待って欲しい。ラッセルは、今の世界が人間の記憶なども含めてそっくりそのまま5分前に全て創られた可能性があると言っているのだ。

つまりあなたのその10分前の記憶さえも、5分前の世界誕生の瞬間に、同時に創られただけかもしれないことを、否定できないということである。

未来については言わずもがな、だ。1秒後あなたは急に心臓発作に襲われて死ぬかもしれない。あなたが死ねば、あなたという人間の人生を観測するものはいなくなり、あなたにとっての現在含めた全ての未来は消滅する。

つまり、未来も存在しない。

では、絶対に疑えない事実とはなんだろうか?

「我思う、故に我あり」

17世紀フランスの哲学者 デカルトが自著「方法序説」に示した有名な言葉である。彼は、哲学者として人生を通してあらゆるものの存在を疑い続けた。例えば「ここにりんごがある。しかし、本当は悪霊にそう思わされているだけでここにりんごなどないのではないだろうか?」と言った具合に、自らの認識すらも全て疑って、全てを否定して回ったのである。

そのデカルトを持ってしてもついぞ否定できなかったもの、それは全てを疑う自我の存在である。確かに、「りんごがあることを疑っている自分」も悪霊にその自分が存在していると思わされたという様に疑うことはできる。しかしそれを疑うと再び「りんごがあることを疑っている自分の存在を疑っている自分」の存在が現れ以下無限ループ、となるのである。

つまり、人間にとって最も重要かつ存在が確定しているもの

それは今現在のあなた自身、それだけだ。

幸福を実感できるのは、今のあなた。今この文字を読んでいる瞬間のあなたという唯一の人間の自我をおいて、他に何一つ存在しないのである。

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