情報に重さはあるのか?
こんばんは、
毎日更新したいと言いつつなかなか
更新することが出来ずにいる次第であります。
それだけ毎日生きることに
必死になっているということなのかも
知れないのですが、
このように文字にしていないと
自分の過ごしてきた記憶や
出来事がなくなってしまうのではないかと
考えてしまう時もあります。
自分がやっている行動、
それがとてつもなく大事なことでも
ダラダラして過ごしてしまった時間でも
1年後の自分が覚えていなかったら
今日過ごしていた時間はなんだったのだろう
28回繰り返してきた3月28日という日を
自分はどれだけ覚えているのだろう
そんな恐怖に似た感情を覚える。
勿論朝起きてから寝るまでの
自分の行動を記録していても
あまり変わり映えのしない毎日に
落胆してしまうこともあるだろうから、
せめて、
今この瞬間だけは
何にもとらわれずに自分の生きている感情を
そのまま残していくことに
何か意味があると信じていたい。
自分がふと考えていること、
感じていることを文字にして
文章にしていくだけなのである。
ふと
情報には重さはあるのだろうか??
と考える。
パソコンの容量などがいっぱいに
なっていると挙動が遅くなって
重くなると表現したりするが
それは言葉のアヤでしかなく
実際に重くなっているのではないと感じる
しかし考えると不思議なものである。
ほとんどの人が持ち歩いている
スマホの中には何千枚という写真や
映画、何千冊の本が入ってしまう容量がある
これらの物質を現実として考えると
数100kgにはなるはずだ
それを電気信号に変換して
わずか数100gの
電子機器に納めてしまっている。
それもポケットにおさまるサイズでだ
なぜ、そんなことができるのだろう
少し調べてみたが、自分が読み解ける範囲では
実際に重さは変わることがないことと
あくまでデータは0『OFF』1『ON』の電気信号でしかない
ということだけは読み取ることができたのだが
いささか納得はいっていない
こんな日常の小さな疑問を
答えれるようになりたいと思うのだが
なかなか自分一人で理解するのには苦戦する。
誰かそっち方面に明るい方がいればご連絡ください。
こんなことを書いていてなんだが、
データや実態の伴わないものに
いまいち信頼できていない自分もいる。
いまだに現物を持ちたがるせいで
居住スペースを支配されているのだが、
それもまた心地良い
本やCDも実在しないものを書き込んだ
データであるのには変わりはないのだが、
そのカタチや感触に安心感を覚えてしまうのだろう。
実は、いま流行りのサブスクも
CDに比べれば音の幅や揺れなど
情報量では圧倒的に劣るらしいので、
やはり自分の好きなものはちゃんと
現物として持っているのがオススメらしい。
とはいえ、そのどれもが、自分が生身で感じた情報量には敵わないと思うので、
好きなバンドや
物語も
人との会話も
直接見て感じるこを億劫に感じることのない生活を心掛けたい。
ということで4月9日[日曜日]どんどこ音楽祭
野武士、久々の福岡[行橋]で演奏します。
詳細はインスタにて順次発表いたしますので
ぜひ皆様お越しください。
私自身も皆様と実際に顔を合わせて
沢山のことを感じてまた書き留めたいとおもいます。
この文章も小宮祐樹という人間を
圧縮してデータ化しているものと捉えることが
出来るのかもしれない。
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