歩く、歩む、5ニ歩、金成
一度辞めてしまうと、それをまた始めることに抵抗ができてしまう。
逆に途中で投げ出すことを繰り返していたら、諦めという感情に抗体ができて容易に物事を投げ出せるようになってしまう。
努力は毒である。
頑張れば頑張るほど、きっと成果は出てくる。
その【きっと】という未来の自分への淡い期待が、動きを鈍くする。
じゃあ、どれだけの完成度なら人様に晒して良いのか。
完璧を追い求めていたら棺桶に入っても【きっと】を追い求めることになるであろう。
創作するにあたって、自分の頭の中では完成したものが見えているのに、いざ形にしてみると、思いのほかスカスカであったり、そもそも形になっていないようなことがままある。
自分の思い描いているものが、屏風の虎や絵に描いた餅であることを自覚させないためにも、形にできない。
からろうじて形になったとしても、それを発信することはできない。
してしまったら、否応なしに人から評価を受ける。
酷評がくるのはまだマシで、一番心にくるのは【無関心】である。
SNSの普及で素晴らしい才能や、良いものがたくさん視界に移るようになった。
そのせいか、目だけ肥え、評論家気取りになったつもりの自分がいるのだ。
そいつが耳元で囁く『そんなもん人前に出して恥ずかしくないのか?周りを見てごらん?君よりできる人は腐るほどいるよ?』
『君がやる必要はないんじゃない?』と、
完璧なものではなく、中途半端なものを発信していけるのは、ある種の才能だ。
自分が出来るようになったことは、ダメダメな時から人に見てもらっていたし、いまだに出来ないことは、自分ができないことを理由に人に見せることを辞めたからだ。
「ダメダメだなこいつ、言ってるワリに全然出来ねぇじゃん」と思われるのが怖くて、こっそり辞めていくのだ。
というより、できるようになった事をやっていた最中は「これ、最高じゃん!!」と思っているが、後から見返したときそのチャチさに赤面することが多い。
どちらにしろ、周りの人に対して「自分これやってます」と発信しなくなった時は、もう投げ出すためにおおきく振りかぶっているということだ。
しかし、遠くに投げ出すのはやめて、一旦足元において考えてほしい。
なぜそれを始めようと思ったのか、なぜこんなに辛いのか。
気晴らしに思いっきりサボって、忘れてもいい。
少し止まって、気が向いたら進めばいい。
それが歩みという字になり、そっと背中を押してくれるであろう。
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