暗がりにはまり込む『ダブル・ファンタジー』村山由佳さん
見ちゃいけないものを見ている気にさせられる。
言えないことを言っている人がいる。その言葉にのせられそうになって、踏みとどまる。
いやいや、秘めておけよ。
だが、その暗がりを見せつけずにはいられず、抑えていた欲望を、開けっ広げにせざるを得ない。
胸の間に指を突っ込み、肋骨を扉のように開ききって中を見せつける。
潔いのかもしれない。
主人公は脚本家の奈津。出だしの描写からして、力が入っている。
男を買った奈津。こうしたら喜ぶだろうという作為が見える男性の振る舞いに興醒めしている。
口臭消しのミントの香り。強すぎるコロン。すぐに合わないと察するが、金を払った分の価値だけを味わおうとする。
「恥ずかしくないよ。まかせて。うんとよくしてあげるから」という男性に向かって、胸の内で言い放つ。
(ー絶対だな)
女性に勝手な幻想を押し付ける男たちを回し蹴りにする。
だが、この冒頭に描かれた情事は、すでに傷つき抜いたあとだった。
奈津は夫・省吾と埼玉で暮らす。猫や犬、そして畑仕事に汗を流す。のんびりとした生活だが、鬱屈とした思いもまた抱えている。強すぎる性欲。淡白な省吾は、奈津の抱えたものを知りながらも、それに答えずにいる。35歳という年齢は、奈津にとっての重荷になった。
ひょんなきっかけで始まった演出家の志澤との膨大なメールのやり取りの末に、省吾の元から離れる。
この志澤とのメール自体も、読んでいると恥ずかしいのだ。男の言葉に寄りかかり、自らを曝け出して受け止めてもらえる体験にのめり込んでいく描写は、当事者たちには、甘くても、側から見ると胸焼けすら覚える。熱がこもっていく言葉のやりとりで、奈津は自らが抱えていた欲望の暗がりに転げ落ちていく。
実際に、奈津が遂げる物語については、本編を読んでいただくとして、どうして、私がこうも、胸を掻きむしられるようになるかというと、著者の覚悟を見せつけさせられるからだ。
村山作品といえば、初期の頃からそうだが、純粋な恋愛を描き連ねてきた。『天使の卵』から始まり、『おいしいコーヒーの入れ方』シリーズもそうだ。だが、著者自身の、暗い部分を暗示する作品も確かに存在した。母との関係性で傷ついた女性を描く『翼』は大好きな作品だ。『青のフェルマータ』は言葉を失ったチェリストが、海に抱かれるように、裸でオーストラリアの青い海に飛び込む描写に憧れた。『海を抱く BAD KIDS』では優等生の主人公が、性に対する興味を抑えきれず、ひょんなことから同級生でサーファーの男子高校生と関係を持つ。『海の味がする』という言葉が印象に残った。『すべての雲は銀の・・・』は、まるで会話をするようなセックスの描写が印象的だった。彼女の裏切りに傷ついてリゾートバイトに訪れた主人公が、夫を亡くしたバイト先のオーナーの姪と慰め合うように抱き合うところだ。
『星々の舟』で描いた、家族の中の許されない恋愛から、何かもがいているような気がしていた。そして、本作である。
初読時は、もう読んでいられなくなってしまった。
奇しくも省吾がいう。
<これまでの高遠ナツメの殻を破りたいのもわかんないわけじゃないけどさあ、視聴者は見たいドラマは、はっきり言ってこんなもんじゃないんだよ。連中は単に、前のシリーズで味わったのと同じ種類の感動をもう一度味わいたいだけで、それ以外の要素なんかが返って邪魔なんだっつの。わかってないなあ>
甘さや切なさを読みたかったのか。人と人との間の摩擦に寄り添い、同情して欲しかったのか。
作家の飛躍についていけない。読み通して、本を閉じた。
続く『放蕩記』も同じだった。どの作品も、繰り返し読んでいた分、扇情的な性描写や自らに刃を突きつけるような言葉たちについていけなくなっていた。
どうして、『海風通信』のような日々は捨てたのか。大切な舞台だった鴨川を捨てたのか。
典型的な足を引っ張るファン。いわゆる『黒村山』みたいな要素がない小説を選ぶのだが、どうもしっくりこない。
『遥かなる水の音』も『天翔る』も。『天使の卵』シリーズを締め括る『天使の棺』も、どう読んでいいかわからなくなる。
そして新刊を手に取ることもなくなった。
書棚でチラリと横目にするぐらいだ。
そうして、今年、魔がさしたように、『ミルク・アンド・ハニー』を手に取った。
『ダブル・ファンタジー』の続編にあたる書を読んで、ホームに戻ってきたかのような感触と、著者自身の深い葛藤がようやく見えてきたような気がした。
子どものとき、母親の書棚から『天使の卵』を引っ張り出して、そのまま読むのをやめられずに、家族が寝静まった夜の、誰もいない居間で、ひっそりと隠れるように2時間、ぶっ通しで読み続けた感覚が蘇ってきた。
ああ、ようやく追いついたのかもしれない。
『燃える波』を読み、『おいしいコーヒーの入れ方』と同じように、楽曲をタイトルにしているのを見て、再び懐かしくなる。
そして、改めて手に取った本書である。
だが、変わらなくてどうする。自らを一段高いところに置いて、誰も傷つけないかわりに自分も傷付かずい済むようなものばかり書いていて、いったい何になるというのか。
思えば、かつての作家はそうだった。
浮気も不倫もなんのその。芸の肥やしというのは現代では許されない。ゴツゴツとして、汚い部屋を曝け出し、果てはドラッグにまで手を出す。
そうした自分を描かずにはいられない。
不祥事の名の下で、清廉潔白さを求め、つるっと丸いものしか受け入れない。ちょっと口に含んで、深みのない甘みをさらっと味わう。
ここまで何かを描こうとはしない。読めば読むほどに、胸をかきむしり、血を流してのたうち回るように見える。
見たくなかったのは、自分にも潜むそういう部分だ。
読みたくない、見たくない、知りたくない。
でも、読まずに、見ずに、知らずにいる人生の味気なさよ。
奈津は、奔放なようで、新しい生活の寂しさを知る。自由を得たようで、孤独だ。求めるものを埋めてくれる存在なんて、実はいないのかもしれない。どこまでも、追い求める。もちろん、この続きを知ってはいるが、結末は決して救いはない。
なんて、さびしい。
どこまでも自由があるとは、こんなにもさびしいことだったのかー。
覚悟だと思う。
奈津は決して、今に満足しない。
渇きを癒す手段が、ないことを知っている。
<業>としか言えない。
そういったものを背負っていない人間はそうそういないのではないか?
誰でも、他人には言えないことはある。楽そうに生きている、いつも上機嫌じゃないか。そう思うほどに、立ち止まる。彼や彼女を平面的に見ていやしないか。
ああ、でも、そういったところは、簡単に悪用できるのだ。
奈津をめぐる男たちは、長けている。
見る目がない。手を引っ張りたくなる。そっちはダメだよ。でも、それすら受け入れると、本人はいう。