見出し画像

"氷菓"《日常の謎と魅力》について

「気になる」から、物語は始まった。
「気になる」から、本稿を書いていた。

【はじめに】

最近、『氷菓』を再読しました。理由は色々とあります。著者である米澤穂信の別作品が面白かったから、京アニの別作品を視聴していたら思い出したから、図書館で地元の作家として本が並んでいたから。不思議な話ですが、そのどれかが欠けていても、いやすべてがなくても私はこのブログをいつか書いていると思います。

それは、ずっと氷菓に対してくすぶっていた感覚が存在していたからです。氷菓を初めて知ったのはアニメでした。地元が舞台で、綺麗な作画で、話も面白いとの前情報までくれば見ない手はありません。

最初の感想として、漠然と面白いなあと思ったのを覚えています。後に原作である小説を読んだときも感想は変わりません。漠然とした面白さを追求することなく月日は過ぎ、最近になって趣味の一環として過去を振り返る機会がありました。そこでふいに思い出したのが、『灰色と薔薇色』の形容です。

自分はこの言葉を探ることにどこか拒否感があったため面白いと思いながらも氷菓について考えようとしなかったのだな、とそこでようやく気づきました。

前置きが長くなりました。そういった経緯があり、今回は氷菓の魅力を書いてみようと思います。

あくまで私の思う魅力なので、以降の文章はあなたにとって当たり前の事実が並ぶだけかもしれません。ご容赦ください。

ここからはネタバレを含みます。ご注意ください。

【本文・氷菓とは】

氷菓とは、米澤穂信による古典部シリーズの一作目です。そのシリーズ名の通り古典部が中心となって物語がすすむミステリー小説だといえるでしょう。

古典部に所属するのは四名。
一……千反田える
二……福部里志
三……伊原摩耶花
そして、四……折木奉太郎

物語は折木の目線で進みます。

【日常の謎と、構成】

氷菓はいわゆる日常の謎が主となっています。日常の謎とはなにか、それらしい引用や説明はあっても、明確な定義はありません。その文字から伝わる感覚で合っていると思います。強いていえば警察が追うような事件性の高いものはあまり日常の謎として含まれず、生活の中で見つけた不可解な出来事、程度の認識で相違はないと思います。

氷菓が作中で扱う謎は主に四つ。
2章(密室)
3章(返却される本)
5章(文集の場所)
そして全体をとおして書かれるメインの謎。
(千反田の叔父の言葉)

日常の謎では、作用していた人間の感情が明らかにされる場合が多いです。氷菓の謎も例外ではありません。ただ、一辺倒ではありません。

わたしが氷菓の魅力だと考えるひとつは、謎の系統の違いです。

具体的にいえば(密室)や(返却される本)は不可解な出来事ではあるものの、人の感情が大きくは関与していないのに対し、残り二つはどうでしょう、ということです。

また、メイン謎については謎の範囲が曖昧であり、なにを持って解決かが疑わしい状態での依頼になります。しかし問われているのは人の感情そのものでした。

メイン謎は、千反田の叔父・関谷純の《古典部》にまつわる思い出であり、えるの涙の原因であり、あやしてくれなかった叔父の気持ちまでもが範囲です。

この依頼に先立って1章では古典部復活を、2・3章では無気質な謎により千反田から折木への期待を高めます。そして5章からは依頼に向き合い、6章では古典部での検討会。

この検討会の構成がまたよくできています。短なる否定の繰り返しではなく、しっかりキャラ性を活かし構成を引き立てていました。

特に福部。福部の言葉を借りるなら、データベースであるが故に結論は出せずともデータにそぐわない情報への訂正は的確。それでいて自身が持ってきたデータが他のデータと同一かどうかはどうでもいいと思っている。福部というキャラクターがいるから、奉太郎は結論を出す役割を全うします。

そうして出た結論を得て7章の真実へと物語は入りますが、その過程で生じていたかもしれない謎、というのもあると私は思います。

初めに作品で扱う謎は主に四つと言いましたが、それは明らかに<気になる人>が存在したから表面化した謎の数であり、解決文があるにすぎません。

たとえば、千反田が古典部に入った一身上の都合。作中では謎として扱われずとも答えがでますが、最初にえるがこの言葉を言った際、奉太郎が気になっていればそれは作品内で謎として示されていたかもしれません。

「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に、だ」
「引用元:『氷菓』(p8,L9)(2001年)ー米澤穂信ー角川文庫」

謎になりえなかった理由は、折木が『省エネ』だからでしょう。

折木奉太郎という人間か掲げるモットーは、千反田えると対をなします。

パーツではなくシステムを知りたいんです、千反田は前にそう言ったことがある。
「引用元:『氷菓』(p87,L14)(2001年)ー米澤穂信ー角川文庫」

十を知るために構成する一を知りたい、一という結果を目的として、十という結果を得る目的としているのが千反田です。それは知的好奇心と呼ぶには明るくない心持ちのような気もしますが、ともかく奉太郎とは違います。

言ってしまえば、気になるか、気にならないか、でしょう。

日常の謎は、とくに生活の一部に紛れ込んだ不可解な出来後に目を向けて、気になるが故に謎として表面化するという流れがほとんどです。ということは気にならなければそれでお終い。仮に千反田の過去が折木にあったとして、その涙も叔父の態度にも関心が向かなければそれまで。

そういった意味合いで対をなすふたりだからこそ、謎を表面化(依頼)する側と、依頼される側としてのみ物語は進みます。

しかしそれは、奉太郎のモットーに反してはいないが的を射てもいません。なぜなら千反田が気になろうと依頼してこようと、それらは奉太郎の「やらなければいけないこと」にはならず、やる必要すらないからです。

では、どうして奉太郎は毎度毎度謎を解いているのか。それは部活に入り、自身の学園生活に対する態度に疑問を抱くようになったから。

奉太郎自身はそれを居心地が悪いと語り、だからこそ千反田の依頼にも付き合います。しかしそれは絶対的な変化の表れではなく、あくまで自身の生活態度に対する疑問レベルです。だから6章最後では反対に、奉太郎が高校生活の主流だと思う青春側への疑問と、自身の生活態度が培った想いにより、真実へとことは運びます。

氷菓の魅力だと考えるふたつめは、上記に書いた構成です。

端的に言えば、周囲で鮮やかに色づき始めた薔薇色が羨ましい灰色の青年が、薔薇色の苛烈さを知りながらも灰色の目線を持っていて良かったと感じてしまう感情の揺れを描いた物語。

謎の内部(千反田の叔父・カンヤ祭)と、とりまく外部(検討する古典部)が似通る、ということでもあります。

【灰色と薔薇色】

折木奉太郎のモットーを福部は『灰色』と、一方で折木は活力あふれる学生生活を『薔薇色』と形容します。

氷菓では度々、奉太郎の姉・折木供恵からの手紙やときには電話がありました。彼女が用いる言葉や語る内容は、やたらと意味があるように思えてなりません。

一章では
①死について
②古典部の再生
五章では
③いつかのこと
④孤独、ひとのなかで
七章では
⑤氷菓への反応

①について、作中ではもうひとつ死について触れる場面があります。
七章最後の千反田えるです。真実を知った彼女がつぶやいた言葉に含まれる死と、折木供恵が手紙で送ってきた死はまったくの別物です。別物だからこそ、同じ死なのに先が違います。
解放か、縛りか。その違いは関谷純のように、望んだ薔薇色か、灰色にむりやり塗りつぶされた薔薇色か、と同じ違いなのではないでしょうか。

②について、供恵は古典部を青春の場と呼びます。
③惜しまないという十年後とは、数字はどうでもよく、いまではないいつかのこと?
④について、言っていることは無茶苦茶な対比ですが、つまり、ひとりも皆も重要であるという教え?

供恵はOBとして古典部を復活させたいだけではなく、奉太郎に青春というひとりではない薔薇色を味合わせたかった。どうしてかといえば、このまま灰色だけ過ごせばいつかいまを後悔するかもしれないから。しかしそれは灰色という折木奉太郎のモットーの否定ではない。その証拠に、文集を作るように誘導している。文集を制作しようとすれば関谷純の話が出てくる。供恵は『氷菓』という言葉に反応を示さなかった。彼女は初めからそちらの名では文集を読んでいなかったのではないか?

『カンヤ祭は禁句』『優しい英雄』
そもそも三十三年前の出来事を、折木供恵は正しく知っていた。禁句という言葉から、周囲にも知っている人間がいたと予想される。
先輩後輩として古典部が存在しているあいだは、関谷純のことは語り継がれていたのかもしれない。だから毎年タイトルも変わらず「氷菓」として文集は発行されていた。

八・九章では、奉太郎から供恵への手紙が書かれる。ここには、薔薇色への羨望からくる灰色への疑問と、現状への停留を望む奉太郎の揺らぎが書かれていた。

それは乾いた灰色の上から一方的に薔薇色で塗りつぶされ関谷純とも違う、灰色と薔薇色が一瞬でも混ざりあった折木奉太郎だけの色なのだ。

折木供恵は、歴史的遠近法の彼方で古典となる今を、奉太郎がいつか後悔しないようにするため、具体的な経験を伴った感情を得させようとした。だから折木に部活という青春への参加から、カンヤ祭の真実、そして氷菓の意味を伝え、揺らぎを与えたかったのだ。

或いはこれは私がそう思いたいだけなのかもしれない。知らずに考えるだけなのと、知って参加しないのには大きな違いがある。折木は一度、薔薇色を羨ましく思えた。その揺らぎが、今といういつかを後悔しない起点となるのではないか、と。

福部は貶めるときには『無色』を用いると言いましたが、私はどうにもこの言葉に引っ掛かりを覚えます。そういう性分なのか、わたしが『無色』だからかは分かりません。無色であるならば、きっといつか後悔することもないのかもしれません。その代わり、"私"の思い出として残る記憶もなにひとつないのでしょうが。

【後記】

だらだらとではありますが、私が思う氷菓の魅力は書けたかなと思います。はじめに、これは私が思う魅力と書いたとおり、異なる解釈の人も居ると思いますので、その場合はコメント等で伝えていただけると助かります。

余談となりますが、私は小説や映画など創作作品の内容を知ろうとするまでにはかなり時間を要します。

映像作品で言えば
はじめに、ただただ視聴。
二度目に、声や音、映像が。
三度目に、ようやく内容が身に入ります。

小説でもこれは同じで、ただ読み進めて文字列にも慣れてきた頃から内容が頭に入りはじめます。

そうでない作品、音や声や映像が第一に残るものもありますが、一度で内容が入ることはまずなく、いずれにせよ内容を知るためには繰り返し見ることに変わりはありません。

楽しみ方として非常に効率は悪いですが、最近、そのように時間を使ってでもまた見たいと思える巡り合わせがあるのはありがたいな、とも感じるようになりました。

小説は内容の補完、アニメは色彩や光彩、音までを含めた演出で彩りを。そう思うには、両者ともが魅力に溢れすぎている作品というのもいくつかあって、氷菓は私にとってそのなかのひとつです。

繰り返し目にする度それぞれを面白いと思うなら、それくらいは言葉にできないと自身が埋没していく気がしたので、思い切ってこのブログを書きました。

これからも再読・再視聴に伴って感想兼魅力書きを続けていけたらなと思います。

と言いつつ、もしも本稿でこの系統のブログが途絶えたら私は『無色』だったということでオチをつけたいと思います。

もしかしたら自分というシステムを知るため、色というパーツを目的として本稿を書いたのかもしれません。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

この記事が参加している募集