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感じながら 生きるために
第11週 6月16日〜6月23日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、考えるな。感じろ!です。そして、感じるためにどのような修行が必要になるのかを自分自身で探り当てよ!というメッセージです。
では、読み解いてまいりましょう。
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L. ELFTE WOCHE (16. JUNI – 23. JUNI [1912]).
11.
Es ist in dieser Sonnenstunde
An dir die weise Kunde zu erkennen:
An Weltenschönheit hingegebenIn,
dir dich fühlend zu durchleben:
Verlieren kann das Menschen-Ich
Und finden sich im Welten-Ich.
夏光が降りそそぐ時に
洞察を働かせることを学ぶ:
世界が美しさに充ちていることに任せ、
本当の私を感じながら生きるために:
人間中心的な考えを撤回し
大いなるものの中での自我に気づくのだ。
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考えるな。感じろ!
Don’t think. Feel!
ブルースリーが、映画「燃えよドラゴン」の中で
武道の極意を弟子に伝える、印象的なシーンですね。
五感を研ぎ澄ませるんだ…
五感を研ぎ澄ませるんだ…怒りではないぞ…
何か感じたか?
月を指差すのと似たようなものだ
指に集中するのではない、その先の栄光を感じるのだ…
相手から目を離すな!
この「考えるな、感じろ」という台詞は表現者として生きる上でも非常に大切なことです。仕事をするときに、いちいち“なぜ?”とか、“どうしよう?”とかを、考えすぎ堂々巡りにハマッてしまったり。さらには、負けたくない、うまくいくのか、失敗したら…。といったマインドに支配されてしまって、いい結果を遠ざけてしまうのです。
何か決め事をする際も同じですよね。初めてトライすること、やってみないとわからないことについて、考え過ぎはいけません。不安から“できない理由”ばかり頭をよぎり、先に進めなくなってしまうのです。ただし、この奧儀を使いこなすための前提があるといわれます。それは、“修行”です自分自身への厳しさと基本を身につけた上での感性の大切さを説いたものなのです。
表現に向かう力が覚醒する瞬間は、思考と経験の蓄積の上に起こるといわれています。 “感じられる”カラダを鍛えてゆかなければならないのです。その積み重ねがあってこそ“感じる”ことができるのです。
これは、美しいかもしれない…という洞察力を発揮するためには
日頃から“美らしきもの”を発見する修行は欠かしてはならないのです。
たとえば、いきいきと咲く花の美しさは誰しもが感じられるます。しかし、咲く前のつぼみや、枯れてみすぼらしく変わってしまった花に美しさを感じられるでしょうか?直観的な美しさではないかもしれませんが、かならず其処にも生の“美らしきもの”が隠れていると思うのです。
対象に集中するのではなく、
そこに隠され宿っている美を感じるのだ…
この季節、そのような洞察力を磨く修行に
精を出すようにということのようです。
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大いなるものの中の自分
“自分”の中ではなく、“大いなるもの”の中で
うごめいている“自分”を感じることが、必要なのです。
この時季、一年で一番日が長い日の夏至近くです。晴れれば夏の強い日差しが照りつけて、光と影のコントラストがくっきりとしてきます。
丁度、影になり、人の目線から外れた何十メートルも続く道のくぼみに、数え切れないほどの蟻たちが切れ目なくセカセカと行進している姿をみつけました。
蟻一匹が自分であることを想像してみると、数キロにもわたる行列、それを覗く人間は、よくアニメなどで上からグワーと登場してくる、巨大な化け物のような存在です。
蟻からすれば、自分は大いなるものかもしれません。
そのようにスケール感を意識的に変えて、周囲を観察してゆくことは、想像力が必要で、イメージを描く訓練が必要なのかもしれません。
蟻になった気分で、大いなるものが、どのような意思をもって、この世界や自分を覗いているののでしょうか?
マインドフルな状態で自分の内や外での出来事を観察してみるとよいかもしれませんね。
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生態系の中のヒト
進化の樹形図をみれば一目瞭然、哺乳類の中の最先端がヒトなのだからヒトが一番エライのだ!と、なんとなく刷り込まれてきているような気がします。蟻が一番エライとは、なかなかならないと思います。
でもヒトは、脳がいびつに進化した適応力のない二足歩行のポンコツな生き物なのに、何故かエライと思っているフシがありますよね。そのうち絶滅するのだろうな…と感じてしまうのは私だけでしょうか?ヒトが生き物の中心で上の方に描かれている樹形図をみるたびに違和感をもってしまうのです…
微生物(ウィルス)、菌類、植物、昆虫、爬虫類、魚類、鳥類、哺乳類、最後に、いびつな哺乳類(ヒト)という感じで命の個体数などで生命を分類しないと、ヒトがこの地球上でどのようなポジションに存在しているのかが把握できないのではないかと思うのです。
そして、大いなるもの視点でヒトを観ると、こいつらのエゴに満ちた活動など、どうでもいいわ…たいして美しくもないし…という感じがしてきます。
話を現実路線に戻しまして“生態系サービス”というコトバを聞いたことありますか?
“生態系サービス”とは、人間が自然から受けるさまざまな恩恵や利益のことを示します。私は、未来を構築してゆく際の非常に重要なコンセプトだと思っています。
これらのサービスは、自然が健全に機能することで提供されるもので、それによって、ヒトの生活や経済活動が成り立ってゆくのです。ですから、その対価を惜しむことなくしっかりと払ってゆきましょうという考えです。
生態系サービスは、4つのカテゴリーに分類されています。
供給サービス(Provisioning Services)
供給サービスは、生態系が直接提供する物質的な資源を指します。これには以下のようなものが含まれます。
食料:
野菜、果物、魚、肉などの食料資源。
水:
飲料水や農業・工業用水。
木材と繊維:
建材、紙、繊維製品の原料となる木材や植物繊維。
薬用資源:
伝統的な薬や現代医薬品の原料となる植物や微生物。
調整サービス(Regulating Services)
調整サービスは、生態系が自然のプロセスを通じて提供する調整機能を指します。これには以下のようなものが含まれます。
気候調整:
森林や湿地が炭素を吸収し、気候変動を緩和する。
水質浄化:
湿地や河川が水を浄化し、清潔な水を供給する。
土壌浸食の防止:
植物の根が土壌を保持し、土壌浸食を防ぐ。
病害虫の調整:
自然の捕食者が病害虫の数を抑える。
文化的サービス(Cultural Services)
文化サービスは、生態系が提供する非物質的な恩恵を指します。これには以下のようなものが含まれます。
レクリエーションと観光:
自然公園や保護区でのレクリエーション活動や観光。
精神的・宗教的価値:
自然の風景や生物多様性がもたらす精神的な癒しや宗教的意義。
美的価値:
美しい風景や自然の造形美。
教育と科学的研究:
自然環境が教育や科学的研究の場を提供する。
基盤サービス(Supporting Services)
基盤サービスは、他の生態系サービスが機能するための基盤となるプロセスを指します。これには以下のようなものが含まれます。
土壌形成:
土壌の生成と栄養分の循環。
光合成:
植物が太陽光をエネルギー源として取り込み、酸素を放出するプロセス。
栄養循環:
窒素やリンなどの栄養素が生態系内で循環するプロセス。
生物多様性:
生態系の安定性と回復力を支える多様な生物種の存在。
たとえば、国民一人1日あたりのCO2排出量6kgを吸収するためには、テニスコート約8面に相当する面積の森林が必要だそうです、その8面分の森林や生態系をだれがどのように確保しているのか?どれほど自然が私たちに貴重なサービスを提供しているかを実感できるのです。
いかがでしょうか?
あなたは、この自然のサービスに、月々いくら払っていますか?
表現の世界でも、文化的なサービスを自然から受けているわけです。美しい自然に触発されて、表現が次々に生まれ、生活を豊かにしています。
それに対して、あなたはどれだけのお返しをできているのでしょうか?
身近な人間関係や物事だけではなく
支えてくれているもの、すべてを感じ
感謝して生きていけるカラダに
早く進化したいものです。
個人的な自我を克服し、大いなる自我をえよ。
抽象的すぎてどのように感じればよいのか、なかなか把握しにくいかもしれませんね。でも、いろいろな日常のノイズに縛られず、このようなマインドフル状態に心を開いてゆきたいと日々願っています。
そのためにまず、
人間中心的な考えを撤回し
大いなるものの中での生かされていることに気づき
何を感じるのか?
体験からえられる感性をフル回転させて
いろいろと観察してみることから初めてみてはいかがでしょうか?
*
シュタイナーさん
ありがとう
では、また