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スピリチュアルもほどほどに

先日、ひろゆきさんのある切り抜き動画を見ました。最近悩んでいたことがストンと落ちたような気がします。

私の母はわりと熱心に浄土宗を信仰していて、朝と夕方には仏壇にお経を唱えていました。風水も好きだったので、玄関もいつもきれいにしていたし、家は常に綺麗で、お花も毎日飾っていました。

私もその影響で目に見えないものや、ご先祖様の存在を大切にしてきたので、誰も見てない所でもなるべく自分のできることをしようとか「見えないなにか」や「気」のようなものを大事にしてきました。

薄々は気が付いていたんですよ?家族でせっせせっせと仏様を大事にしても、家族はどんどん病気になったり死んでしまう。私なんて20代で家族全員を亡くして、今や帰る実家すらありません(維持できず、売却しました)

それでも、ずっと論理的な思考よりも「がんばれば報われる」「信じる者は救われる」みたいな考え方を頼りに生きてきました。それを全否定するわけではないんですが、その考え方で生きていくのに疲れてきてしまったんです。

先日、輪島の大雨の災害のニュースを見ました。元日に能登を襲った大地震、それに加え今回の大雨。行方不明になった奥さんを探しているあるご主人は「神も仏もない」とおっしゃっていたのが印象的でした。私でも同じことを思うと思います。

亡くなった母は毎日仏壇にむかってお経を唱え、先に亡くなった家族が天国に行けるようにと願っていました。私は私が生きている間は、私も母と同じようなことをしようと思っています。それは私が心から信じているかどうかではなく、それが母がやってほしと願っていることだったからです。でも、私が死んだら私の家族には同じことをしてほしいと思いません。楽しく自分の人生を生きてほしい、ただそれだけです。

脱線してしまいましたが、動画の中でひろゆきさんはあらゆることに対して、自分なりにまず不安要素を取り除いたり、対処を考えて臨むというようなことを言っていました。ある程度対策をしたら、あとはそんなに心配せずにやってみて、楽しむ。

私には悪い癖があるんです。それはただ漠然と「不安」になってしまうという癖です。ろくに対策や準備をするわけでもなく、ただただ怯えている。なんか、そういうの疲れました。

私が育った環境では、論理的に物事を考える人が圧倒的に少なくて、スピリチュアルな価値観を大切にする人が多数派でした。「運」「縁」「恩」「感謝」「礼」などです。

都会に来てみてびっくりしたんですが、そういうのを全く通らず?に生きている人わりといるようです。お墓にまいったことがないとか、お盆ってなにするの?って感じの人とか、親戚づきあい一切しない人とか、「いただきます」「ごちそうさま」ちゃんと言わずにごはん食べる人とか。

私の昔の感覚で言ったら「罰当たり」な行動をする人達。それでも楽しそうに生きている人は生きてるし、そうじゃない人もいる。

ばかにしているとかではなくて「えーーーー!そんな罰当たりなこと続けてて大丈夫なん??」って心配になるような感覚なんです。笑

大人になってわかったのは、神様は罰を当てたり当てなかったりする役目の人ではないということ。信じるか信じないかは本当に自由で良い。ただ、それを人に押し付けたり、逆に非難もしてはいけない。その人の大事な部分だから。

それで、私はどうするかというと。スピリチュアルな価値観を土台に置くのはやめようという結論になりました。できるだけ神様に頼まないし、自分の行動は自分で責任を取る。

そのうえで、ご先祖様は大切にする。いつも私を見守ってくれているって思ってる(怒ってみてるの間違いかもしれないけど。笑)

ただただ不安に飲み込まれたり、ラッキーが来るのを待つのはやめたい。自分の不安を整理整頓して、正しく立ち向かっていけるような人になりたい。


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