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30代って、どんな人生?

パッと見、自分より10歳ほど年上のサラリーマンたちが、肩を寄せ合ってカウンター席に並んでいた。年季の入った床も壁も油でベタベタしていて、店員さんたちが忙しなく各テーブルへ移動していく足跡が残り続けている。明らかに過密で、若干よどんだ空気と串焼きの煙が充満した居酒屋。テーブルの上の調味料類もやや不衛生に見えるけれど、それも含めてこの店の味なのだろう。

「20代どうよ?」

この店に私を誘ったのは元上司だった。たしか私は、当時26歳くらいだったと思う。

「え、うーん……戦場って感じです(笑)。東京って大変。楽しいけど、厳しい。30代の先輩たちの、あの落ち着きって一体なんなんですかね」

「30代のほうが人生安定してるように見える?」

「見えます。というか実際安定してると思います。どうでした?30代」

「20代の頃は、20代をどう生きるかで人生が変わる。今が一番の戦いなんだって思ってたんだけどさ、俺は」

彼はジョッキに手を伸ばし、一杯目のビールを飲み干す。言葉にはされなかったけど、このタイミングで設けられた間に「今の君みたいにね」と言われた気がした。そういう間だった。

「20代より、30代をどう生きるかのほうが重要だと思うよ」

「…え、なんでですか?」

「手を抜けるようになるし、諦めることに慣れるから。惰性で生きるクセが一番育ちやすいのが30代。意外とこの10年、ずっと必死で、本気で駆け抜けつづけられる人って少ないから、気をつけな」


──彼との会話の記憶は、ここまでしかない。東京のどこの駅の、どの店だったか、どの季節だったか、この後私は何を言ったのか。そういうことも忘れてしまった。でも最後の言葉は覚えていて、30歳の誕生日を迎える夜にも脳裏によぎった。

「なんとなく覚えていた言葉」だったのに、30代になって月日を追うごとに思い出す頻度が高くなり、いつの間にか剥がれないほど粘着質になった。今ではこの言葉がたしかな圧を持って、私に迫ってきているように感じる。

例えば上手に手を抜くことは、必要なスキルのひとつだった。これを理解し、使いこなすことでさらに高く飛ぶためのものだった。失敗と痛みの対価として、手に入れたものだった。

ラクをするためのものではない。小手先で仕事を終わらせるためのものでも、惰性を育てるためものでも、正当化するためのものでもない。

だけど引いておかなければならない境界は、きっと、どんどんぼやけていく。「違うだろ」と、自分で自分に言い続けることをやめたら。20代で迷惑なほど自分から溢れ出ていた焦りや、何者かになりたいという欲求は、やわなメンタルを相当掻き乱して困難とやる気を自己供給させていた。

そんなもの当時の私は望んでいなかったし、「焦りたい」「焦らなきゃ」と思って意図的に生み出したわけでもない。でも無限に溢れつづける気がしたそれらと全く同じものは、もうほとんど残っていない。

なるほど、20代より難解かもしれない。優秀であることだけが人生の豊かさではない、自分にとっての幸福であるとも限らない。自分の歩いてきた道の中で、望んだ自分になれなかったこともある。でもそれが、必要な経験であったことも今はわかっている。過去に思い描いた100点に向かいつづけなくてもいい。

自分を許してあげたり、認めてあげたり、肯定してあげることが上手になったのは決して悪いことではない。めちゃくちゃいいことだ。

でもその全て、一歩間違えたら危ういんだろうと思う。

肩の力を抜いたり、慌てずどっしり構えたりすることは、「適当でいい」ということではない。甘やかしたり許したりすることと、怠惰は違う。

ずるり、と知らぬ間に簡単に落ちてしまう気がして、もうすでに落ちている気すらして、怖い。ずっと怖い、30代の速度が、怖い。新しい挑戦をすることだけが立派なわけでもないけれど、新しい挑戦をしなくても、上等に生きていけるのが30代なのかもしれない。ある程度のレールを20代の自分が敷いてくれているならば、それを丁寧に登っていく生き方もあれば、レールを拡張したり、あるいは敷き直したりの大工事をする生き方もある。どちらかが正解とか、不正解とかではない。
でもすぐ隣に、底知れない怠惰が渦を巻いていて、油断すると簡単に引き摺り込まれていくような気がする。

何を決断するか?という派手な分岐よりも、重要なことはもっと地味で、粛々としていて、日々のなかにある。これは全く「30代だからこそ」の話ではなくて、いつだってそうなのだけど、たしかに怠惰の渦は20代の頃よりも引力を増しているかもしれない。

この粛々とした戦いを10年、最初から最後まで大事にしつづけられる強さが自分にある!とは言えない。私は言えない。怖いから成長しなければと思うし、過信していいような年齢ではない。焦りつづけることって、きっと難しい。

「人生簡単になってきたな」と思いやすいのが30代で、そう思い始めたら簡単に転げ落ちていくのが30代で、転げ落ちた痛みすらも適当にやり過ごせたりするのが30代かもしれない。


みんな、どうやってこの10年を生きてきたんだろう。この10年の先に思うことって、なんなんだろう。全然違う10年を過ごしたとしても、そこには「30代ってこういう時期だよね〜」という、共通認識みたいなものが生まれるのだろうか。


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