この頃になると現在でも活躍する、あるバンドのフロントマン(以下リーダー)と出会う。 高校には軽音楽部がなかったので、当初5人のメンバーで立ち上げた。 いわゆる前身のバンドである。 私はギターを担当してしばらく活動したが、文化祭には受験勉強に専念したいという理由で出なかった。 リーダーに音楽の才能があることはわかっていたし、体育や美術の授業で年間ペアになるくらいに仲がよかった。 ただ、人一倍独学だろうと受験勉強に専念しないと、進学がままならない学習環境だ。 それでも
地元に比較的近い所にある、多部制単位制定時制高校に通うことになる。 新しくできた高校らしく、高校入試にしては異常に高い倍率だった。 進学しなければならない事情を訴えたところ、面接と作文のみの審査においてなんとか通った。 正直嬉しいというより、行き場が見つかって少しホッとした気持ちだった。 ただ、不登校生活の延長線上で、いきなり進学とともに高校へ通えるわけもなく、私はフリースクールへ通うことに決めた。 本当ならば中学のうちに通っておくべきだったのだと思う。 高校には
中学に進学すると私も弟も、母の家で過ごす生活に戻った。 祖父母には相変わらず気を遣っていたし、母と暮らす家では自分たちの部屋も与えられたのでありがたかった。 何よりTVを自由に見られるのが嬉しかった。 祖父母の家では、ドラえもんやクレヨンしんちゃん以外の番組を見させてもらえることはなかった。 それ故に小学生の時の私は、クラスで度々話題にあがるTV番組の話や、SMAPやタイタニックが何なのかも全くわからなかった。 タイタニックにいたっては何かの怪物を想像していた。
母がベビーシッターを雇い借金を積み重ねる生活は、私が小学4年生になる2学期まで続いた。 知らない大人たちが、頻繁に家を訪れるようになったのもこの頃だったと思う。 母は離婚してからずっと通院やカウンセリングを欠かさず受け、薬を服用していた。 家までやってきた祖父母に対して、脅すように包丁を自分の喉に突き立てている母の記憶がふと蘇る。 小学校の校長やソーシャルワーカーの介入があり、祖父母により母は精神病院へ強制入院させられてしまう。 私たち双子の今後の処遇について話し合
この時期になるとおぼろげながら記憶がある。 自分でもシャイで、大人しい子どもだったように思う。 美術の時間に宇宙に羽ばたくカブトムシを描こうとしたところ、「宇宙は何色ですか」という質問を、恥ずかしくて先生にずっとできないままでいた記憶がある。 しかし、何色かわからないまま描いたカラフルな宇宙に架かる虹の下を、カブトムシが飛ぶ絵か入賞した。 そして朝礼で表彰台に登った時も、やっぱり恥ずかしかった。 まともに校長先生の顔も見られなかった。 子どもの頃は顔が比較的整って
両親は教師だった。 母は中・高の養護教諭で、父は小学校の先生。 この二人が日本で出会い、新婚旅行先のハワイでの出来事がきっかけで私と弟が誕生した。 弟とはいわゆる双子の関係で、二卵性にあたる。 お互いを初めて意識した瞬間は当然覚えていないが、それは恐らく劇的な瞬間ではなかったのか。 お互い顔を見合わせて固まるみたいな、産まれて初めて鏡を見て戸惑うみたいな。 それとも大したリアクションも取れなくて、何か自分と似た生物が近くにいるくらいの感覚だったのか。 親にとって
ある人に、自分の経験を語ることで救われる人がいるのでは、そう言ってもらえたことがきっかけで、重い腰を上げてnoteとtwitterを動かそうと思います。 主に自分の成育歴や経験、日常で経験したことなどについて日記感覚で綴る予定です。 30歳を過ぎた今、一度自分の人生について整理しておきたいという気持ちがあります。病気休暇から休職を経験した後、職場を退職して時間があることも理由の一つです。 自叙伝というと何か偉大なことを成し遂げた人物が綴るものと思われるかもしれませんが、