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曽祖父の遺した耕作放棄地再生vol.1忘れられた土地を再発見する

2022年5月、私は地元の人もあまり立ち寄らない茂みの中へ軽トラを走らせていました。

助手席には90代半ばに差し掛かった集落で最高齢のお爺さんのYさんを乗せ、Yさんの案内で荒れた道を進んでいきます。

5月初旬、樹々も草花も青く生い茂っている、舗装されていない道を進みます

なぜ、このような人気のない場所へご近所のお爺さんと連れ立ってドライブしてきたのかといえば、実家の曽祖父が耕していた土地を探しにきたためでした。

耕作放棄地再生のきっかけ

実家の兼業米農家を継いでいたこと

そもそも、どうして曽祖父の土地を探しにきたのかといえば、2020年に他界した父の後を継ぎ、地元の田んぼを耕して米作りを始めたことがきっかけでした。

相続関係の書類を漁る中で電気、ガス、水道、不動産その他の権利や名義に目を通すこととなり、その中で普段、自分たち家族が目にする土地から一際離れた飛地の存在を知ることとなりました。

ところが、父と生前土地を見に行ったこともなく、紙に書かれた地図では正確な位置がわかりません。

また、同居していた祖母は父より関わりが深い土地のはずですが、明確な境界についてはわからず、記憶もぼやけているとのことでした。

そういった難しさを感じつつも、個人的な事情や経験からこの土地探しにワクワクしている自分がいました。

自然も人も豊かになっていく生態系づくりの実践経験

米農家を継ぐにあたり、稲作の及ぼす環境への影響や生態系との共生について思いを馳せていた私は、自然本来の作物の生命力を促進する自然農法といった農法や、『土中環境』という土の中の水脈や微生物、その他の動物との共生が生み出す豊かな生態系づくりのキーワードに出会っていました。

誰にも忘れられた手付かずの土地であるのなら、これまでの学びを存分に実践できる自分のフィールドが手に入る!

自然本来の力を見直す一環として、普段食べているりんごやみかんの種を育て、鉢植えにもしていましたが、彼らが根を下ろすための良きフィールドになるかもしれない!

そんな妄想も広げつつ、いざ!土地探しに乗り出したのでした。

存在しない登記簿上の番地に残された耕作放棄地

しかし、市役所に問い合わせても法務局に問い合わせても、その番地に記された場所が地図上に見つかりません。

登記簿上の番地も既に消滅しているようです。

どうやら、昭和後期から平成初期あたりに土地改良が行われ、その時に区画整理された土地の番地と登記上の番号にズレが生じてしまったようでした。

田舎あるあると言うべきなのか、私が父の死後の各種権利の名義変更を行なっていると、水道は曽祖父名義など、各種公共料金などの名義が故人のままでも普通に生活できているルーズさでした。

父も祖父が亡くなった当時、手続きをする余裕がなかったということなのでしょうか。……そうなのでしょう。

ただ、私自身も普段は大阪、京都などで活動しているため、せめて手続きだけはきっちり済ませて現状把握だけはしておこうと思いました。

そこで、ご近所の方で祖父や曽祖父をよく知っている方々に声かけをし、土地探しを始めたのでした。

土地探しのこぼれ話。祖父の友人Tさん

はじめに相談させてもらったのが、集落では最高齢で米作りを行なっているTさん。

Tさんは祖父ともよく交流していたようで、私が田んぼを継いで始めた時や土地探しを始めた時は真摯に相談に乗ってもらうことが出来ました。

『一度、土地を手放したらいつ再び取り戻せるものかわからんからな』

『お前のとこの祖父さんも、家の田んぼの土地の権利を明確にすることや、作業や管理のしやすさの都合で交換したり、よく頑張っていたんや。俺にも「どうしたらええんやろ」なんて話にきて、よく話したもんや』

『お前はしっかり畑もしているし、祖父さんらも安心するやろう』

そんなことを伝えてもらえ、自分の祖父の当時のあり方などにも触れることが出来ました。

そして、こうした相談や声かけの中で話に乗ってくれたのが、集落最高齢クラスのYさんでした。

このあたりで唯一、私の家の曽祖父のこともご存知で、また、飛地で畑をやっていたことも知ってらしたので、その土地へ案内していただけることになりました。

そして2022年5月、家の田んぼの田植えを終えてからYさんにお会いし、その後、土地探しへ出発したのです。

50年ぶりに、我が家の土地を再発見

Yさんの案内で向かった土地は、戦中・戦後に畑として盛んに活用された土地とのことでした。

それも今は昔。

当時、耕作されていた方々も用をなくして去っていたり、高齢化に伴って世代間での受け渡しもうまく行われず、管理が行き届かず手付かずになっていたりと、最低限の道だけは草刈りされて残っている耕作放棄地となっていました。

到着してみると、草木が生い茂り奥へ入っていくこともままならない状態

めぼしい位置に軽トラを停めるも、目印は何もありません。
完全に、Yさんの記憶頼りです。

助手席のYさんも杖をつきながら案内してくださることになりました。

軽トラを停め、境界となる位置へ向かいます

『Yさん。僕の家の土地の境界は、どこからどのあたりでしょうね?』

「今、停めた軽トラのあたりから、あっちの方までやな」

『あ、鉄製の猪の檻が見えますね?あの辺りまで?』

「行ってみようか」

辺りにはきちんと手入れされたエリアも見えました

『なるほど、大体この辺りですか。ありがとうございます!あの、奥行きはどれくらい?』

「奥へ行くとU字溝が埋め込まれて、そこが目印になっとったな」

『なるほど!……結構、かき分けていかないといけないですね。ありがとうございます!』

ともあれ、無事に土地を発見することができました。

もはや、当時のことを知る人は集落に少なくなってしまっている中で、当事者に証言をいただけたのは本当にありがたいことでした。

結果的に、見つかった土地は当初見当をつけていた場所とはまったく違う場所であり、何より知人の口づてで見つけるのが一番だと感じました。

高さ5mほどの低木ですが、向き合ってみるとなかなかの迫力です

祖母の証言も踏まえると、かつてこの土地は戦中・戦後の頃に畑を行なっていた土地だそうです。

また、私の曽祖父は集落の人々から畑や田んぼを借り上げ、手広く農家として生計を立てていたとのこと。

そもそも、兵役に出てしまった後の人々が残していった土地の管理という意味合いもあったのだろうか、と思われます。

そんな時代も今は昔で、曽祖父は戦後は専業農家から建具屋、小売なども手広く商売を広げようとして、以降はこの土地は放棄地となっていたようでした。

祖父は兼業で田んぼもやっていたものの、主な商売は大工であったため、建築関係の仕事をメインで行い、離れた農地の管理については手付かずであったようです。

以降、3世代、少なくとも50年以上(70年以上に及ぶかも?)にわたって放置されてきた土地は、かくして2022年5月に再発見されました。

枯れたススキが生い茂っていますが、この辺りから草刈りを始めて奥へ進めそうです

確かに土地は発見できたものの、想像を絶する草木の生茂り方で、どこから手をつけたものか……と、しばらく途方に暮れていましたが、まず第一歩!

ここから、この土地を畑として、果樹園として再生させていこうと思います🌱


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大森 雄貴 / Yuki Omori
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