冷たい言葉は使わない。自分の為に。
最近このコロナ禍で、チラチラ聞こえる言葉に、とても悲しさを覚えている。
「付き合う人を選ぶ機会になった」的なやつだ。
確かに、ものすごく自分勝手な人、何も考えない人、人任せな人。
コロナに対する対応は十人十色だ。
自分と考え方が根本的にちがう人を、確かに、視覚的に見ることができたのかもしれない。
でもそれに対して、「人の本質が見えた」として自分が人をふるいにかけたような物言いに、とても違和感がある。
自分がふるいにかけたように、自分をふるいにかけた人もいるだろう、きっと。
このコロナ禍が終わったとして、二度と会ってくれないそれまでの友人がいるかもしれないと言うこと。
何が正しいかも、良かったかも、まだ何にもわからないのに。
本当に自分勝手に考え無しに行動して人を危険に晒して平気でいる人とは、距離をおけば良いと私も思う。
私の職場にも、家族が年明けGOTOを使って私の地元に行こうとしていた人がいた。
「GOTOなくなって高くなっちゃって。」
と、言っていた。
お世辞にも和歌山は、医療体制が整っているとはいえない。大阪がお隣であることで、ある程度の感染者増は覚悟しなければならないはずで、余裕はないはずだ。
そこへ行くご家族本人はもちろんだけれど、一緒に働く人間がその場所出身であることを知りながら大きな声で話してしまうその人にも、なんだかとても悲しい気持ちになった。
結局は行動に対して配慮があるかないかの問題かもなあ、前にも言ったけれど…。
だが、自分なりに考えて行動している人が大半だと、何かしら事情がある人もいるだろうと考えていたい。
だいたいはそういう人で、その結論と自分の価値観が合わないだけ、と思っているのだけれど、性善的すぎるだろうか。
どんなことがあっても、目に見えるのは部分でしかない。その人そのものが見えることなど、本人ですらあり得ない。
すべてが終わったあと、まだ私がちゃんとそこにいたならば、許せるところは許せる自分でいたい、と思う。
怒りがまた暴走しかける自分の感情を畳み直した昼下がりであった。
そしてもう一つ、忘れかけるたびに自分に問い直すことがある。
生死がかかったような咄嗟の瞬間に現れるのは、人の本性じゃない。本能だということ。
生きたいという本能が、人の手を振り払ったり、自分の食べ物を先に得ようとしたり、場合によっては人を殴ってしまうのだということ。
そんな瞬間に人を助けられなかったからといって、それが、その人が本当はそういう人なんだと示すわけではない。
「それができる人はすごい」、それは確かだが、できない人が人として劣っているかどうかはわからない。
人は努力して人になるのだと思う。
そして努力して人でいるのだと思う。
生きる本能が働くのは仕方のないことだと私は思うし、そういう瞬間が自分に訪れた時、そうならない自信はない。
最近、周りの人の行動に疲れ、戸惑うことが増えた。
いろんなことがわかってくるなかで、情報を得られる人と情報に振り回される人、何も情報を持とうとしない人、の溝が深くなっているのかと思う。
ここまでなら大丈夫だろう、のラインだってそれぞれにちがう。
自分が前者か真ん中か、自信はない。
そう思ってはいても、どうしても自分の理解できない行動や言動をする人に対する憤りや不満を抱いてしまう。
ふるいにかけそうな自分がいる。
でも、ふるいにかけたくないと願う自分もいる。自分もそうされたくはないのだから。
なので、こうして一度、自分の、人に対する見方や考え方を整理してみようと思った次第。
今、私だけじゃなく多くの人々は、人との間の壁と溝に思い悩み、苦しんでいるのではないかと思う。
そして最前線で、なんとか食い止めようと闘ってくれている方々もいる。
立場や環境は違えど、乗り越えたいのは皆同じだと思う。
だからもう少し、気持ちの上でも踏ん張っていたいのだ。