「正解」の道
初めてと出会い続けたい。ととても強く思う。
自分なんて流動的なものだ。
脆くなったり固くなったりかと思えば柔らかくあったかくなったり、刻一刻変化し続ける形ないコレを、心と呼んでいるに過ぎない。それを包む形あるコレを、自分と呼んでいるに過ぎない。
確固たる自分、なんて、私の思う自分とはほんとに程遠いなあと思う。なんならスライムだもん。変幻自在。あ、心の話です。身体にはちゃんと芯(骨)がある。正直心の方にはないな。ない方がいいとすら思っている。
ひとところにとどまっていると、コイツはこういう人間だという虚像がうまれるような気がしてる。
周りから思われる自分で在ろうとして、そんな虚像を目標にしたり、あるいは、その虚像から逃れようともがく虚しさは、居場所をなくして初めて知った。
意味のないことではなかったけど、そこで得たものと、使った体力気力時間お金、それからそれが原因で苦手になってしまったものや抱えてしまったトラウマのよーなものを考え合わせたら、割に合わねえな、と笑ってしまう。
無駄ではないよ。
せっかく動けるんだから、生きてるんだから、新しいいろんなものを見て出会って、そこから生まれる自分とも出会い続けたい。
他人が生んだ自分じゃなくて、自分が生んだ自分と。
そう思った結果が、私の旅好きと旅グセだった。
でも今こーなると、生き方そのものを考えるのとそれは同義だと、思う。
だから私は、「いつか絵や文章をかく仕事をしたい。」と、いつかいつかと思うだけだったことをこうして一歩踏み出しているわけだし。
竹籠だって、私で終わりにしてなるものか!と思えた。
遠い道のりだと思う。果てしない。
でも、歩いているのといないのとでは絶対にちがう。
できれば平穏に生きていきたいとだって、そりゃあ思う。こんな時代だもの。何があってもおかしくないんだから。
思い出すのは子どもの頃に見たプロ野球のノーヒットノーランの試合。
子どもごころには、打たないし走らないし、全くおもしろくなかった。周りがなぜこんなに興奮して盛り上がっているのかわからなかった。
今ならわかる。どれだけ凄いことか。
安定と安心を貫くのは、とても大変で凄いことだ。間違ってなんかない。カッコ良い。
正解の道なんてないのだ。
けれど、私は先に待つのがなんであろうと、そのときの私の心が指し示すものを、追いかけていたい。
その先に待つのは、恐怖かもしれない。貧困かもしれない。最悪、早めの死かもしれない。
でも、そうじゃないかもしれない。
だから私は、自分が後悔しないのはどちらか、自分が自分を認めてやれるのはどちらか、という目線でいつも道を選ぶ。
正しい正しくないじゃなく。
自分の道を正解にできるのは自分しかいないよと、むかし誰かが言ってくれた。
正解の道なんてないのだ。
そこには自分がいるだけなんだ。