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そこに詩はあるんか?

(そこに愛はあるんか?の大地真央さん風にお願いします。)

人生には詩がなくちゃ。

と、常日頃から思っていました。
もちろん今でも思ってます。

ただ、世の中でポエム的文章が批判されているのをたまたま見かけたりするとき、ああ確かにこれは詩ではないな、とわたしも思うことがあって、でも何が違うの?と言われるときちんと言葉にできなかったりしました。

まず、わたしが「人生には詩がなくちゃ」と思うとき、それは現代詩や短歌などの一般的な詩歌には限定されず、精神性の高い演奏や、絵画や小説や手芸作品や、さらには生活の隅々のあらゆるものの中にある、心を動かすものと、動かされた心、正と負の感情を含めて、それらは詩だと思っているわけです。

だから日常のあちこちに詩はあるし、誰かが感じた詩的瞬間が言葉や作品に置き換えられて、心に届いた時にはめちゃめちゃ幸せな気持ちになります。


ところが、世の中には詩に近い形をしているのに、何か異質なものを感じて、全く心が動かないものがあるのです。


例えば、ブラック企業がやりがい搾取するための似非ポエムとか、学校教育にありがちな押し付けがましい絆系文章とかかな。


とても詩に似てるけど、これらには詩は感じないんです。
たとえ世の中の大半の素直な人には好意的に受け入れられてるものであったとしても、わたしはひねくれ者だから、そこには詩を感じないし、その区別のための違和感は持ち続けたい。

それで、違和感の正体は何だろう、とひとしきり考えてみました。

もちろん色んな意見があるとは思いますし、これは個人的なわたしの偏見かもしれませんが、ひとつの見分け方の例として、


ポジティブな言葉しか並んでいないこと。かも。


本当は見なきゃいけないものがあるのに、それを見ないように、あえてスルーしている感じ。

言語化は、本来見えないものに気付くための手段なのに、それらは気付きを妨げるために存在しているわけです。

ポジティブな言葉だけを使うことで反論を許さない雰囲気を纏います。

自分の成長も、お客様の幸せも、夢を実現することも、ブラック企業に搾取される理由にはならないわけですが、労働環境についての問題意識を持たせないように、それは存在しています。

本当はイジメもあるし、仲の悪い子もいるのに、都合の悪いことは全部スルーして、絆や友情を歌わされたりするのも、何か大事なことから目を逸らされて誤魔化されてる気がします。

そういえば、子どもが学校の作文にネガティブな言葉をあまり使わないように気を使っていたことがあって、とても驚いたんですが、学校教育でも負の感情を表現しないことを良しとしてるのかしら。

負の感情だって尊いのに。

詩的な営みは、目を凝らして五感を研ぎ澄ませて、負の感情も含めてきちんと感じることなのに、似非ポエムにはむしろ負の感覚を鈍化させることを目的に作られるように感じるんですよね。

こういうものと、多くの人の日常の詩的な営みを一緒くたにしたくなくて、わたしの違和感センサーは常にオンに入っています。

だから、ひねくれ者って云われるんでしょうね。

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