断片を抱いてやめないでいる
noteは、わたしにとってネット空間の避難場所のようになっています。
SNSやニュース記事などの殺伐とした風景に疲れたら、noteの世界を散策して気持ちを切り替えています。
最近のnoteの歩き方は、ふと頭に落ちてきたワードを検索して、検索結果から表題が気になる記事にアクセスするというもの。
検索ワードはほんの少しだけマニアックに、例えばマイナーな季語であるとか、少しだけ学術的であるとか、有名な文学作品の印象的な脇役の名前であるとか。
タグ検索よりも、わたし好みの記事の遭遇率が高くなる気がします。
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そうしてnoteの中を散策していると、美しい文章にしばしば遭遇します。
凡人のわたしにはとても思いつけないような比喩表現だったり、使われる言葉のひとつひとつが煌めいているような文だったり、溜め息が出るほど洗練された文だったりと、枚挙にいとまがありません。
そんな文章に遭遇すると、宝石を掘り当てた開拓者みたいな気分で物凄く幸せな反面、暫く書けなくなります。
自分の文章の拙さや軽さに書くことが恥ずかしくなるのはもちろん、何となく文体が影響を受けてしまって、背伸びしまくった文章になってしまうのも、不自然な感じで。
そうして書きかけの下書きがたまってゆきます。
わたしはnote内には下書きをせずに、テキストエディタに溜めるので、下書きの断片がもう大変なことに。笑
更新できるかどうかはまた別のお話になるのですが、誰かに課されたものではないし、自分自身がそれを課しているものでもないのに、下書きという形であれ文章が溜まってゆく現象が、我ながら不思議な心持ちです。
きっとそんな時、以前ならさっさとやめてしまったから。
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若い時は才能がないのに何かをすることにとても抵抗がありました。
才能がないのに楽器を続けていいのかな。
才能がないのに歌を詠んでいいのかな。
才能がないのに絵を描いていいのかな。
こんなことばかり考えているような人間で、それが足枷となってやめてしまった好きなことが沢山あるんです。
わたしは本当にすぐ諦めちゃう星人でした。
ところが、
あの時わたしと同じように才能がないように見えた人達が、やめずにずーっと続けていて、今大きな花を咲かせています。
よく考えたら当たり前ですよね。
何十年も頑張っていたわけですから。
技術的にも内面的にもそれはもう次元が違って当然なんです。
若い頃は、やめないことが大事だなんて所詮綺麗事だと思っていました。
本当に大事だったなんて。
愚かなことに、それを知るまでに半世紀もかかってしまいました。
ああ、またしてもあとの祭り。。
でも遅まきながら、辞めないことが大事だってわかったので、「下手くそだからやめる」というのだけは、もうやめることにしました。
だから、また今日も拙い下書きの断片を作ってしてしまいます。
最後まで書けたらアップするのかもしれません。
少しだけ苦笑いしながら。
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