黒猫のカフェテリアです。
湯川 葉介
詩をまとめています。
短編小説をまとめています。
君が海外に行くことを、僕は放課後の駐輪場で初めて知った。そして同時に、君が宇宙へ行こうとしていることも、僕はその時初めて知った。 君と最初に言葉を交わしたのは、高校一年の文化祭が幕を下ろそうとする最終日のことだった。僕は付属大学の協賛のもと、母星に帰還する宇宙船が大気圏に再突入する時の軌道修正を行う模擬プログラムの開発に取り組んでいたが、その研究成果を発表する展示会場に唯一足を運んでくれた同校の生徒が君だったのだ。 ひとしきり展示物を眺めた後、君は「現実派なの?」と僕に
君の目は僕を見ていたけれど あの冬の日にストーブは赤く燃え 風に震える窓からはなぜか 見覚えのある空が君を見ていた 何度目の言葉が指先で遊び 何度目の声がその温度を呼び覚ますだろう 「もっと近くに」 そう言う君の まつげの先に乗っていた光は いつまでも君の知るところになく 差し出された手を握り返すと 君はいつだって同じ問い掛けをする 「私の手って冷たいのかな」 冷たいと思う そう言う僕に 「私はそうじゃなかったってことを いつまでもきっと覚えていてね」 僕はまた君を怒らせただ
浜辺に打ち上げられた小さなガラス玉を あなたが放り投げた日から空は透明になった ヤドカリの奏でる歌を聴きながら クジラの群れを追う海鳥を探して 静かな防波堤の先に浅く腰掛け 海の香りが戻るのを待ち続けている あなたの旗が翻る帆船 遠くの海から現れる朝日 何処かの空に大穴が開いた日 私の手から時間は零れ落ちていった 青空に浮かぶ小魚の群れを 素手で掬って海原へと還し そこに故郷が沈んでいるなら このアクアリウムになど戻っては来ないで 空から降ってきた透明なガラス玉に 美しいあな
赤い夕陽が差し込む廊下は、どこまでも永遠に続いていた。誰もいない教室、誰もいない校舎、誰もいないグラウンド。仄暗い赤に染められた世界は、全ての事物の営みやそれらが立てる物音の一切を奪い去ってしまった様に静まり返っていた。 そんな世界を唯一人、あてどなく彷徨い続ける少女がいた。彼女は時折立ち止まり、背後に伸びる長い廊下を振り返った。しかしその瞳に映るのは、永劫回帰する赤い景色ばかりで、別の世界へと繋がる窓枠は一つも浮かび上がらない。 溜息を漏らし、すぐ傍にある教室の立て札
遠い夕焼けが水平線の彼方へ暮れなずむ。 花火の残り香は風に流され、再び潮の香りが辺り一帯に満ち始めた。潮騒を奏でる波打ち際は夕と夜の微かな間隙に現れるプルキニエの薄い青に染まり、黒髪を白い柔肌の首筋にそっと撫で付ける詩織は浅い波間を裸足で歩いていた。私は砂浜に腰を下ろしてそんな彼女の横顔を見詰める。くすりと鼻を啜れば、二人の間に居座る気まずさが去ってくれることを期待して。 「・・・なんで?」 長い沈黙の末にしびれを切らした私がそっと問い掛ける。やや擦れたその声にこち
灰色の分厚い雲に覆われた空の下で、暗い海が冷たく波を揺らしていた。北西から吹く風はどこか肌寒く、真冬でもないのに体の芯まで脅かさんばかりに心細かった。 25歳を迎えた1週間後、僕は二年務めた職を辞した。これまで何度も職を転々としてきたが、今回が最も長く仕事に就いていたことになる。しかしそんな事実は何の慰めにもならず、かえって空疎な自尊心を傷めつけるばかりだった。 細かい砂に叩き付けられた海水が白く泡立つ波打ち際。僕はじっとその様子を見詰めたまま砂浜に座り込んでいた。重
いつしか僕は、大粒の涙を零しながら夜道を歩いていた。 重々しい曇天には星の瞬き一つなく、夜道を点々と照らす外灯が街外れの暗がりまで続いている。僕の背中を照らす都会の明かりが今では随分と遠ざかってしまっていた。 僕は一体、どれくらいの時間、どれくらいの距離、この暗い夜道を歩いて来たのだろうか。 昨夜、たった一人の親友が僕の家を訪れた。彼に会うのは20歳の時以来なので久しぶりの再会がとても嬉しかったが、彼は浮かない顔で僕の目を一瞥してからというもの、俯いたまま椅子に座り
一羽の赤とんぼが、麦わら帽子の淵に留まっていた。 金色の稲の海の波間を、僕は先行く祖父の後に付いて自転車を漕いでいく。夕日が雲を赤く染める頃合いに辺りを見渡せば、空中にはたくさんの赤とんぼが舞っていて、所々幾重にも隊列を組んでいる様だ。しかしながら僕は、祖父の被った麦わら帽子に不時着して羽を休めているただ一羽の赤とんぼが、特別に愛しく思えたのだった。 夕焼け空に突き刺さる長い釣り竿。1年前、祖父が裏山の竹林から見つけてきた丈夫な竹で拵えてくれたこの世でたった一本の僕
ふと、空を仰いでみただけです。泣いてなどいません。流れゆく雲の隙間にあなたの影が見えた様な気がしたものですから。 僕は父を知りません。生まれた時には既に両親は離婚していて、物心つく頃には父のいない暮らしが当たり前になっていました。優しい祖父母との穏やかな生活を送る中で、仕事で忙しい母が家に帰って来るのがいつもの楽しみでした。 珍しく休日に母と二人で街中に遊びに出ると、子供連れの家族を沢山見かけました。その中には、両親に挟まれて両手を繋ぐ子の姿もありました。僕も母と手を
・・・もう疲れた、もう限界だ、何もかも嫌だ 溶けた泥人形の様に重い体を横たえた僕は、六畳一間のアパートの部屋で電灯も点けずに唯々暗い天井をぼんやりと見ていた。いくら寝ても取れない眠気、常に覆い被さる様にのしかかる倦怠感、目の奥にじんわりと潜む頭痛。 連休明けの最初の出勤を終えて漸く自分の部屋に辿り着くことが出来た僕は、スーツ姿のまま固いフローリングの上に寝転がり、バッグを放り投げて浅い呼吸を続けた。 「明日から連休だ」と喜びに浸っていた四日前の退勤時の自分が羨ましくて
その日、国中で白い羊の群れが空を駆けていく現象が確認された。 天空に響き渡る「メー」の鳴き声、大地をも揺らす蹄の音。誰もが足を止めて白昼の空を仰ぎ見る中、僕は羊達の群れが駆け行く空とは反対方向に向かって走り続けていた。 気付けば街中から鳥達が姿を消している。カラスもハトもスズメもいない。街角でよく見掛ける野良猫さえ一匹たりとも姿を見付けることが出来なかった。ただ人間だけが、ジッと佇んだまま空の不可思議な現象を見守っていた。皆が車を停めて空を見上げているものだから、大通
僕は高校の三年間、不登校だった。 正確に言うならば『別室登校』と言った方が正しいかもしれない。登校は出来るのだが、皆が授業を受けている教室に行くことが出来ず『カウンセリング室』という別室に登校していた。 僕が別室登校になったきっかけは些細な事だ。登校中に授業で使う英語の辞書を忘れていることに気付いて家にUターンした時、ふと心の奥に張り詰めていた糸がぷっつりと切れたのだ。その音が耳元ではっきりと聞こえた。 高校受験を終えて進学校に合格できた僕は、四月に入学してからと
朝になると、僕はよく彼女の部屋に遊びに行きます。そっと扉を開いて顔を覗かせれば、彼女はいつも柔らかな微笑みと共に僕を見付けてくれるのです。 「あら、今朝も来てくれたのね」 彼女の鈴の様な声音が、僕はとても好きでした。 身の回りの世話をするお手伝いさんが時折忙しくしていることがあるため、部屋に入るのを少しだけ躊躇するのがいつもの癖である僕に、彼女は静かな手招きをしてくれます。 「近くへいらっしゃい」 顔中を嬉しさの笑みで満たすと、僕は早速彼女が身を沈めているベッ
その日も、雨が降っていた。 梅雨入りして約一ヶ月。朝からどんよりとした暗い雲が上空に垂れ込め、気圧の変化に不調をきたした私の頭はその奥底にじんわりと鈍い痛みを携えている。湿った溜息を零しつつ、私はなんとなくざわついた胸を抱えたまま、お気に入りの傘をさしてアパートまでの帰り道を歩いていた。 今日の職場のオフィスもじめじめとしていて、ミスをした同僚が何やら上司に叱責を受けていた。彼が私とは違う仕事を担当しているとは言え、誰かが怒鳴られているのを聞くと胸がズキズキとして呼吸
残暑が漸く下火になる十月の初旬頃、僕は一ヶ月前に生まれたばかりの息子と妻を連れて、久方ぶりに実家に帰省した。田園風景が目前に広がる静かな人里の中にひっそりと佇んでいる古い一軒家が、高校生まで生活した懐かしき我が家だ。予め知らせておいたものだから、実家の玄関先では両親が首を長くして僕らの乗った車が到着するのを待ち侘びていた。初めて顔合わせする初孫に両親はいたく喜び、僕と妻も心からの歓迎を受けるのだった。 その日の夜、久方ぶりに父との晩酌を楽しんでいると、徐に立ち上がった母が
庭先に根を下ろした梅が満開に花を綻ばせ、香しい梅の花の香りが家中を満たしていた3月初旬のことである。夫と共に暮らしていた一軒家に、ある一匹の野良猫が迷い込んで来た。真っ白な毛並みのその猫は、庭先でガーデニングの手入れをしていた私の足元にやって来て、何の遠慮もなくそのしなやかな体を摺り寄せて来たのだ。 「・・・あなた、どこから来たの?」 そう言って柔らかい毛並みを撫でてやると、白猫は「なう」と一声だけ鳴いて喉を鳴らし始めたのだった。私はそんな白猫のある特徴に気が付いた。