小説「メビウスの輪と小さな綻び」
君が海外に行くことを、僕は放課後の駐輪場で初めて知った。そして同時に、君が宇宙へ行こうとしていることも、僕はその時初めて知った。
君と最初に言葉を交わしたのは、高校一年の文化祭が幕を下ろそうとする最終日のことだった。僕は付属大学の協賛のもと、母星に帰還する宇宙船が大気圏に再突入する時の軌道修正を行う模擬プログラムの開発に取り組んでいたが、その研究成果を発表する展示会場に唯一足を運んでくれた同校の生徒が君だったのだ。
ひとしきり展示物を眺めた後、君は「現実派なの?」と僕に訊ねた。
僕は肩を竦め、「ご覧の通りね」と答えた。
「私のクラスの男子は皆、VRでラグビーばっかりやってるけど」
「僕のクラスも似たようなものだよ」
君は僕の瞳をじっと見て、「なんであなたもそうしないの?」と訊ねた。妙なことを訊くなぁと思っていると、「妙なことを訊くなぁって思うかもしれないけど、ただ単純に不思議に感じたから訊いてるだけ。だから率直に答えて」と君は言った。
僕は仕方なく、「仮想現実より、実際にある宇宙の方が好きだからだよ」と答えた。
「……VRなら何でもできるのに? シミュレーションや実験だってし放題なのに?」
僕は近くにあった休憩用の椅子に座って、「何が言いたいのさ」と訊ねた。君は腕組をして顎を擦りながら僕を見ていたが、もしその時君の顔に薄笑いの一つでも浮かんでいようものなら「出ていってくれ!」と僕は怒鳴ったかもしれない。だが、君はそうではなかった。君の口元や瞳に浮かんでいたのは、野卑で低俗な薄笑いなんかではなく、僕が少し引いてしまうくらいきらきらと輝いた純粋な笑みだったのだ。
「街中で天然記念物でも見付けたかのような目をしていたよ」
後日、僕は君に何度もそう言った。
「だって本当にそうじゃない」
それが、毎回君の返す言葉になっていた。
君が卒業後に海外へ進学するという話を聞いた時、僕は酷くショックを受けた。それは君から直接話を聞いた訳ではなく、駐輪場で君のクラスの女子生徒らがやっかみも含めた噂話をしているのを盗み聞きしてしまった僕の責任でもある。だが、それは同時に、本気で宇宙に行こうと思っていたという衝撃的事実を僕に隠していた君の責任でもあるのだ。
僕はてっきり、君が僕と付き合ってくれているのは天然記念物に等しい僕のことを面白がっているだけだからなのだろう、と思い込んでいた。でもそれは違った。君も本物の宇宙が好きだったのだ!
高校を卒業した三日後。君は国際線ターミナルに姿を消すまで僕に手を振り続けてくれた。僕は君がこのまま宇宙に行ってしまうような気がしてかなり胸にくるものがあった。寂しいとか、悲しいとか、そういうものとは比べものにならないくらい強い痛みを胸の奥に感じていた。だから、その時こう思ったのは何の嘘偽りもない事実だ。絶対に壊れない、丈夫で快適な、頼もしい宇宙船を造ろう、と。
当時のその思いが今でも開発者としての僕の全てを形作っていることを君は知らないだろうが、僕だって君が国際線ターミナルの向こうから何を思いながら手を振っていたのか知っている訳ではない。君が過酷な訓練を終えて帰ってきた夜に訊ねてみるなんてことは何千回、何万回だってできたのかもしれないが、君は僕が作った夕食をたっぷりと食べてあっという間にふかふかのベッドで寝てしまうものだから、結局込み入った話なんて出来ないまま母星より少しだけ遅い朝を迎えるのがいつものオチなのだ(まぁ、正直に言って照れくさいだけなんだけどね)。
君を国際線ターミナルに見送った日から十五年後。僕は宇宙エレベーターの第四連絡ゲートから第四惑星へと出発する君達クルーを見送った。僕は本来母星にいて、キャプコムとの通信を傍で聞いているのが関の山だと思っていたが、特別に本部の許可が下りて第四惑星へと向かう君達をその水際まで見送ることができた。
宇宙船へと乗り込む道すがら、君は笑顔で僕に手を振り続けてくれていたが、僕は十五年前を思い出しながら不思議な感慨に耽っていた。あの時、やっぱり君はどう思っていたのだろう? 君が心の底から命を預けていいと思えるような宇宙船を、僕は造ることができたのだろうか……。
本部から、君達との通信が途絶えた、という連絡を受けたのは、それから五カ月余りが過ぎた日のことだった。第四惑星の静止軌道上で突如未知なる空間の裂け目が出現し、君達クルーの乗った宇宙船を跡形もなく飲み込んでしまった、というのだ。僕が本部に駆け付ける頃には、君達の宇宙船は別次元の宇宙へと飛ばされた可能性がある、という話で大騒ぎになっていた。
すぐさま幾つかの対策チームが編成され、膨大な計算を元に考え得る全ての遭難パターンの現実的なシミュレーションが行われた。その結果、君達が自力で母星のある恒星系に帰還するのは絶望的に困難であるということが明らかになった。つまり、殆ど不可能であるということだ。
シミュレーションと言っても、君達の行方さえ分からない状態で現在観測可能な一つ、あるいは二つ隣の宇宙を目標とした仮のものでしかないため、不測の事態に制限を課す予測になってしまい、まるで雲を掴むようなものだった。
僕は殆どの人員が項垂れている本部を後にし、技術部門のチーフにある話を持ち掛けた。彼は始め、難しい顔で「うむ……」と唸っていたが、やがて承諾して(何かあったら彼が責任を取ると言ってくれた)、本部の承認を得ずに旧式の量子コンピューターに接続して君の乗った宇宙船が時空の歪みを受けて取り得る全ての軌道と次元転移のパターン分析を行った。
しかし、それでも次元を超越した先の可能性にはまるで手が届かない。僕は少しずつ不安と焦りで全身が震え始めるのを感じた。間に合わない。こうしている間にも、君は宇宙の果ての、更に先に存在する無数の強力な時空の歪みに曝されて、刻一刻と僕から引き離されていっているかもしれない。もし仮に君が母星に帰って来られたとしても、その頃には僕は年老いたおじいさんになっているどころの話じゃなくなっているかもしれない。笑えない冗談だ。
だが、ただ一つだけ希望と呼べるものがあった。それは、宇宙センターに集まっている連中が恐ろしく腕の良い専門家ばかりである、ということだ。
僕が退席して無謀な計算をしている間、本部では新たな対応策が練られ始めていた。それは、仮想空間上での遭難パターンシミュレート計画だった。フラットな人工知能の集合知による大規模な計算を元にして、人間の知能の限界を超えた流動的課題にも対応できる仮想現実での遭難パターンとそのルートをシミュレートするのだ。当時の人工知能はある一定の不確定要素を抱えており(その範囲は広く余りにも複雑過ぎる)、仮想現実も完全なものとは言えないレベルだったが、それらを差し置いてさえもある特大のメリットが得られるのは確かだった。それは、実際のミッションへのアサインを待つ現役の飛行士だけでなく、引退した元飛行士や技術者、開発者、研究員までもが参加することが出来るという点だ。
早速、仮想空間で君達クルーの遭難パターンとルートのシミュレーションが開始され、僕は特別に編成されたチームのメンバーとして参加することができた(上に掛け合ってくれたチーフのお陰だ)。
一週間後、僕はチームのメンバーと共に仮想空間で実施される君達クルーの捜索を兼ねたシミュレーションに臨んでいた。人工知能によって導き出された遭難パターン&ルートは限りなく可能性が高いものに絞って八ルート。僕らは六人編成の八チームに分かれ、仮想現実が生み出した仮の宇宙に僕の設計した宇宙船で飛び立った。
第四惑星の静止軌道上で観測データから再現した空間の裂け目に飲み込まれ、時間の加減速と散乱、分裂と凄まじいねじれを何度も体験し、三百六十度、全面を時空の渦に覆われた不可思議な世界へと突き進んで行った。
そして、いくつかの階層化された別次元の宇宙に跳躍した先で、僕はとうとう君を見付けることができた。別次元にある別の宇宙の、とある銀河の二つの恒星系に属する未知なる赤い惑星に不時着し、君はクルー達と共に母星へ帰還するための対処法を模索していた。僕は君達の様子を三百六十度全ての観測点から見ていたが、君は当然僕らの観察に気付いているはずがない。ところが、ある時ふと不思議な通信が届いた。
僕は手元で受信の操作を試みたが、やがてそれが通信ではないことに気が付いた。
……ねぇ、聞こえる?
それは、直接僕の意識に届いている君の声だったのだ。
「私は大丈夫」君は確かにそう言った。
「不安はあるし、内心めちゃくちゃテンパってるけど……」
僕のチームメンバーは慌ただしく空間を動き回ってデータの解析をするのが忙しく、君の声を聞いている者は誰一人としていなかった。僕は次々と移り変わる観測点から君を見詰め、何か声を掛けてやりたいと思った。しかし、それが絶対に不可能であることは予め分かっていた。
「だけどね、今を乗り切るしかない。こういう時はクールにいかなくちゃ。乗組員全員を危険に晒してしまう訳にはいかないから」
君はそう言いつつ淡々と他のクルーに指示を出している。そうだ。君はいつだってとても賢く、タフで、限りなく美しい女性だった。僕がこの世界で知る唯一の女神だ。だから大丈夫。君を信じることが、僕にできる唯一のことなのだ。
「私は必ず帰る。あなたのいる宇宙に。あなたの待つ星に。私達が住んでいた家に」
僕の観測点がある場所でふと停止した時、君がこちらを見て僕らは目が合った。実際、目が合うはずなどないことは分かっていた。だが確かにその時、君は僕に向かってにっこりと微笑んでみせたのだ!
次の瞬間、空間がぐにゃりと歪み、僕らは再び目まぐるしく変化する時空の中へと放り出された。船内では落胆の声が漏れていたが、僕一人だけはグッと握った拳に確かなものを感じていた。
シミュレーション終了後、本部が君達のいる現在点を捕捉することに成功した。理由は分からない。宇宙って奴は、どこまで行っても分からないことだらけなのだ。
僕らが仮想現実から戻ってくると、本部はこれまで以上に大騒ぎとなって次なる救出作戦の考案と計画策定に慌ただしく取り組み始めていた。しかし、その騒ぎも数十分の内にとても寒々しく沈痛な空気の中へと飲み込まれてしまうことになった。シミュレーションで捕捉した君達の現在点、そして収集したデータをもとに母星に帰還できるルートやパターンを幾千通りも計算した結果、こちらから迎えを出したとしても君達が無事に帰還できるのには母星時間で百五十八年掛かることが判明した。嫌な予感の的中って奴だ。僕は年老いたおじいさんになっても、君に会うことはもう二度と出来ないらしい。
だが、それでも救出作戦の準備は着々と進められ、長い話し合いと熟慮の結果、僕や君達クルーの家族の殆どは、冷凍睡眠に入ることを選んだ(飛行士や特別な訓練を積んでいる技術者でない限り、実際の救出ミッションに参加することはできない)。君に会えるのは、百五十八年後の未来ということになる。
別れを告げなければならない人達がいた。技術部門のチーフを含め、君達クルーが無事に帰還するまで世代を超えてサポートすると誓ってくれた宇宙センターの人々、現在に残していく友人らや知人、そして現在に残る方を選んだ家族。僕は半年の月日を使って彼らを訪ね、共に食事をし、談笑し、握手をし、抱擁をし、最後の言葉を交わしてお別れをした。
君が宇宙で経る時間は六ヶ月、母星で流れる時間は百五十八年。この半年の内に君達が発する微かな通信エネルギーを仮想空間上でキャッチした、という報告を本部から受けた時には驚きと共に安堵を覚えたが(本部の化け物じみて頭のいい連中が号泣しながらこの謎を解明しようとしているくらいだから、僕にその原理を理解した上で分かり易く説明するなんてことは期待しないでくれ)、これはある意味とんでもない賭けでもあるのだ。果たして百五十八年後にも世界はあるのだろうか。それは時間を跳躍する人間が感じる不安という名の普遍的な感覚なのかもしれない。
僕は無事、未来で眼を覚ますことが出来るのだろうか。君はその時、僕の元へ帰ってきてくれているのだろうか。時間ってやつは、本当に残酷で恐ろしいものなのだなと思いながら、僕は冷凍睡眠のカプセルの中にゆっくりと身を横たえ、百五十八年の長い眠りに就いた。
僕の覚醒は、予定より数日遅れた。しかし、計画通りに成功した本部の素晴らしい救出作戦によって無事帰還していた君が回復室で待っていてくれた。「やあ」と言った僕を君は言葉もなく抱きしめ、回復したタイミングで暖かな庭園のテラスへと連れ出した。
「見て。世界は私達が知っている頃とはうんと様変わりしている」
僕らは今、仮想現実の世界にいる。百五十八年の冷凍睡眠は当時の技術では余りにも長く、身心への負担が大きいため、まずはバーチャルな世界での意識の回復と適応から始めなければならない。
隣に立つ君は、あの日の君に戻っていた。高校の制服に身を包み、真剣な眼差しで僕の研究成果を読み耽る一人の少女。やがて眉間に皺をよせ、「これ、出土品並みに古いわね」なんて生意気を言う。そんな君は今では立派な名宇宙飛行士だ。次元を超え、目まぐるしく変化する時空を生き延び、そして勇ましくもクルー全員の命を引き連れて戻ってきた。
「感謝してる。あなたの造った宇宙船に。サポートしてくれた人達や私達を受け入れてくれた仮想現実に。それだけじゃ全然足りない、もっと多くのものに」
僕らは再び元の年齢に戻り、暖かな陽光の降り注ぐテラス席でしばらくの間身を寄せ合って過ごした。
「ねぇ、信じる?」
君は新しい住まいで七ミリのパスタを茹でながら、ソファで本を読む僕にそう尋ねた。
「何を?」
「仮想空間と本物の宇宙が、どこかで繋がっているかもしれないってこと」
僕は本を閉じ、手の中からそれを書棚に転送して君を見詰めた。
「君は次元を超えて途轍もない宇宙の彼方から帰って来た。それ以上に、信じられないものがあると思うかい?」
君はふっと笑って、「ないかもね」と答えた。そして、「もうすぐできるよ」と言った後、パスタをお湯の中からゆっくりと掬い上げた。
君は生ける伝説になんてなりたくなかった、とよくぼやいているが、今のこのご時世、誰が現役で誰が生ける伝説かなんてまるで見分けが付かない。そういう意味では僕らにとって生き易い世の中になったのかもしれないが、やはり僕らは本物の世界の方が好きだし、本物の宇宙には魅了されて止まないものがある。
時代は今もハイスピードで移り変わり続けている。最近、第四惑星の静止軌道上だけでなく、第七惑星の近傍にも空間の裂け目が存在しているのが確認され、高度に進んだ宇宙科学の理論によって、自在に異次元への時空間トリップを安全な基準で行うことが可能になった(異星人に遭ったかどうか? それはご想像にお任せする)。人工知能社会におけるネイティブな後進の誕生も、技術開発を飛躍的に発展させ、僕がかつて必死に設計した宇宙船より遥かに素晴らしいマシンが次々と生み出されている。
僕は時折、君と仮想現実を抜け出してリアルな世界で宇宙旅行に出掛けたりする。なんと時代遅れな、と笑われるかもしれないが、ソーラーパネルを広げて宇宙空間に漂う巨大なデータセンターの群れを横目に、君と二人だけで系外の天体へ飛んでいくというのはなんと贅沢で愉快なことなのだろうと僕は常々思う。
現実世界を好む少数派の人達は、ある程度年齢を重ねると多数派の人達のように仮想世界への完全移住を考え始める。僕らにとってはまだまだ先の話ではあるが、僕はふと、「その時が近付いたら、君はどうする?」と船内で訊ねたことがある。君はコックピットの管理ホログラムから僕に視線を移し、「妙なことを訊くのね」と苦笑した。
「最初から分かり切ってることじゃない。今、この瞬間の全てが私達のものよ」
そうだ。君の言う通りだ。それは分かり切っていることなのだ。だからこそ僕は君を美しく思う。君の全てと、君のいるこの世界の全てと。そこには必ず限りがあり、限りがあるからこそ、世界は途方もなく美しいものになる。君はいつだってそう信じている。だから僕も、いつだってそんな君のことを愛し続けている。
僕らの宇宙船は真空の旅路を進んで行き、懐かしき第四惑星の静止軌道上へと差し掛かった。僕は宇宙船の窓からそっと船外を覗き見て、そこに君臨する巨大な惑星の姿を目に捉えた。
白い惑星は、息をのむ程に美しく、永遠に等しい自転の輝きで、どこまでもちっぽけな僕らを悠々と照らし続けていた。
〈 END 〉