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短編小説「愛しています」

 朝になると、僕はよく彼女の部屋に遊びに行きます。そっと扉を開いて顔を覗かせれば、彼女はいつも柔らかな微笑みと共に僕を見付けてくれるのです。

「あら、今朝も来てくれたのね」

 彼女の鈴の様な声音が、僕はとても好きでした。
 身の回りの世話をするお手伝いさんが時折忙しくしていることがあるため、部屋に入るのを少しだけ躊躇するのがいつもの癖である僕に、彼女は静かな手招きをしてくれます。

「近くへいらっしゃい」

 顔中を嬉しさの笑みで満たすと、僕は早速彼女が身を沈めているベッドの傍らに歩み寄って腰を下ろしました。
 彼女の瞳を見つめる僕の頬に、そっと触れた細い指先はとても冷たく、朝の涼しい空気にさえも体が冷えてしまうのだな、と僕は少し哀しい気持ちになります。
 ほろりと微笑んで見せた彼女は、静かな窓辺の方を見やりました。陽光を弾きながら柔らかな風にゆらりと翻る白いカーテンが、彼女のお気に入りなのです。

「今日はとても天気がいいわね」

 そう言う彼女は、幼い頃から心臓の病に悩まされていました。ベッドから立ち上がって少し歩いただけでも酷い息切れを起こすのです。
 僕が彼女の傍に寄り添い始めて今年でもう17年になります。いつも小さな部屋の窓から同じ景色を眺めながら、彼女は溜息を付いていました。

「いつか、遠くへ行ってみたいなぁ」

 僕はそんな彼女の横顔を、唯々眉を下げて哀し気に見つめることしか出来ませんでした。

 そんなある日、珍しく彼女の体調の良い日がありました。ベッドから起き上がると、部屋の中を自分の足で歩き回って見せたのです。嬉しそうに笑う彼女はちっとも息切れを起こしていませんでした。

 それから僕は彼女と一緒に青草の生い茂る家の庭へと出てみました。海岸沿いの丘の上に建つ彼女の家の庭からは、海原と空が織りなす見事な水平線を臨むことが出来ます。彼女は白いワンピースを身に纏い、淡い緋色のリボンが付いた麦わら帽子を被っていました。

 柔らかな潮風が僕らを包んで、心地よい眠気を運んできます。青草の上に腰を下ろした彼女の隣に、僕は柔らと寝転んでゆっくりと瞳を閉じました。

 海猫の声、潮騒、風が草を揺らす音。

 僕は次第に浅い眠りの中に落ちて行きそうになりましたが、ふと彼女の笑い声が聞こえた様な気がして目蓋を開けました。いつの間にか僕の隣から姿を消していた彼女は丘の下の浜辺に一人で降りて、穏やかな陽光の降り注ぐ中、裸足になって波打ち際で遊んでいました。

「あなたも降りて来て、一緒に遊びましょう」

 そう言って手を振る彼女のことを、僕はとても美しいと思いました。

 その三日後。僕は一人で浜辺を歩いていました。その日も朝からとても良い天気で、暖かな陽光が降り注いでいました。
 しかし僕はなんとなく落ち着かない気持ちを胸に抱いたまま、砂浜に刻まれた自分の足跡を振り返っては酷く寂しい気持ちになっているのでした。つい先日、二人分の足跡があった筈の浜辺には今や僕の足跡しかありません。彼女は今日も体調が優れず、ベッドの上で眠っているのです。海猫の声に誘われて空を見上げている内に、僕の残した足跡もすっかり波にさらわれてしまうのでした。
 ふと気付くと、僕の手が薄く透け始めていました。どこまでも青い空に手を翳してみれば、流れ行く雲が手の向こう側に透けて見えるのが分かります。その途端、耳元を吹き抜けた潮風に僕はハッとし、急いで彼女の元へと向かいました。


「・・・来てくれたのね」

 僕が部屋に顔を覗かせると、彼女は相変らず柔らかな笑みを携えたままそう言ってくれました。僕はすぐ様、彼女の傍に駆け寄ってその両手を優しく包みます。ゆっくりとまばたきをする彼女の瞳は、今にも永い眠りに落ちてしまいそうな程、遠い色をしていました。

「もう、お別れなのね」

 そう言った彼女の手はとても冷たく、肌の色は血の気が薄くなり真っ白でした。僕は小さく首を横に振りつつ、

『いいえ、いつまでもあなたの傍にいます』

 と言いました。すると彼女は安堵した様に深い溜息を零して、僕にもう一度だけ微笑んで見せたのでした。
 彼女の鼓動が少しずつ弱まるのに合わせて、僕の身体も次第に消えていきます。僕は、幼い頃から病弱で一人ぼっちだった彼女が生み出した空想上の存在でした。
 やがて瞳を閉じたまま少しずつ意識が遠ざかっていく彼女を優しく抱き締めながら、僕はその耳元にそっと囁きました。

『いつまでもあなたを、愛しています』

 そうして彼女の静かな鼓動が止んだ時、僕もこの世界から消えました。


〈 終わり 〉


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