武田勝頼と龍勝寺殿と高遠
最近、集中的に武田勝頼関係の本を読んでいた。勝頼というと、父・信玄と比べてボンクラだったというイメージがあったが、そのイメージが誤解だとわかった。同時代人の信長は、勝頼のことを「油断ならぬ敵」と書いていたそうで、研究者の平山優氏によれば、勝頼が暗愚と評価されるようになったのは、近世以後のことらしい。信玄の四男として生まれ、高遠諏方氏の養子になったが、思いがけず武田家を継ぐことになった勝頼は、高遠の養子先でも、甲府の武田家中でも、複雑な人間関係の中に置かれ、そのような大変な環境の中にあっても、しかもあまり運にも恵まれなかった面があっても、できるだけの手を尽くして生きた人物に思える。勝頼関係の本を何冊か読んだ今では、勝頼の最期で落涙しないではいられない。
さて、そもそも なぜ勝頼関係の本を読んだのかというと、勝頼の最初の正室・龍勝寺殿に以前から興味があったからだ。龍勝寺殿は、織田信長の養女だが、実の父は苗木の遠山氏である。遠山氏は、岩村、苗木、明知といった土地を拠点に、古くから岐阜県の東美濃地方を治める氏族であったが、戦国時代には、この辺りは、織田氏と武田氏に挟まれてしまい、遠山氏は、織田氏と武田氏に両属することになった。織田氏にとっても武田氏にとっても、織田氏と武田氏の間にある微妙な土地を古くから治める遠山氏は味方につけたい存在でもあっただろう。遠山氏の血を引き、且つ信長の養女である龍勝寺殿(母は織田信秀の娘[信長の姉妹])と武田勝頼との婚姻は、織田氏、武田氏、そして多分遠山氏にとっても、悪くないものであった。
ところで、勝頼に嫁いだ龍勝寺殿は、甲府に入ったものとずっと勘違いしていた。しかし、龍勝寺殿が嫁いだころの勝頼は、まだ高遠にいたから、龍勝寺殿も甲府ではなく高遠に入ったようである。1565年、高遠に嫁いだ龍勝寺殿は、約二年後に信勝を生み、さらにその約四年後に亡くなった。勝頼はその少し前から甲府に入るようになっていたようだが、龍勝寺殿は、甲府を見ることなく亡くなったかもしれない。
龍勝寺殿亡き後、小康状態を保っていた織田家と武田家の関係は崩れていく。いくつかの局面を経て、1582年、勝頼の妹婿の木曽義昌が武田家に謀反を起こし、次々と武田方が織田方に内通したり、降伏したりした。最後まで武田側として奮起したのは、勝頼の弟・仁科盛信ら高遠籠城衆がこもる高遠城であったが、その高遠城も、織田信長の息子・信忠(すなわち龍勝寺殿の兄弟)によって落とされてしまう。頼みの高遠を落とされ、行き場を失った勝頼と、勝頼と龍勝寺殿の息子・信勝と後妻の北条夫人は、ついに山梨県の田野で最期を迎え、武田氏は滅亡した。しかし、そのわずか約80日後、本能寺の変で、織田信長もその息子・信忠も滅亡した。龍勝寺殿を輩出した遠山氏も、織田と武田との間の戦いで多くの犠牲者を出したが、龍勝寺殿の父と同じ苗木遠山家を継いだ遠山友忠・友政父子は、生き残った。生き残った友忠・友政父子は、本能寺の変後、しばらく流浪の時を過ごしたが(このことはまたどこかで書くかもしれない)、関ヶ原の戦いで、東軍として、秀忠軍に属し、関ヶ原のあとは、遠山友政が苗木藩の初代藩主として、旧領に復した。以後、遠山氏は歴代苗木藩主として、明治まで生き残った。
(標題の写真も高遠の桜)
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(参考資料
①『武田信玄と勝頼 文書にみる戦国大名の実像』鴨川達夫著、岩波新書、2007年
②『武田勝頼』柴辻俊六著、新人物往来社、2003年
③『武田勝頼のすべて』柴辻俊六、平山優編、新人物往来社、2007年
④『武田勝頼』丸島和洋著、平凡社、2017年
⑤『武田氏滅亡』平山優著、角川選書、2017年
⑥『遠山友政公記』千早保之著、苗木遠山資料館、2010年
⑦『中世美濃遠山氏とその一族』横山住雄著、岩田書院、2017年)
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