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星野富弘と前橋、足尾とキリシタン

 夏頃に書いたものの、私生活も日本国内もバタバタしていて、下書きに溜めたままにしていた記事をupしてみることにしました。ご笑覧いただければ、ありがたいです。


 先日、ひさしぶりに帰省したら、実家に三浦綾子と星野富弘の対談をまとめた『銀色のあしあと』という本があったので、読んでみた。三浦綾子は北海道旭川出身の作家、星野富弘は群馬県勢多郡東村(現みどり市)出身で花の詩画集をかく方である。三浦氏は、結核に脊椎カリエス、その後も直腸がんというように次々と大変な病魔に襲われて、星野氏は、まだ若き中学教師時代の大怪我によって、首から下の運動機能を失ってしまって、両者とも人生のほとんどをベッドで過ごしている(た)というところ(このような状態だから、星野氏は、口にくわえた筆で美しい花の詩画集をかかれている。)と、キリスト教徒になったというところが共通している。対談では、長い療養生活を経験された方々だけがわかる会話をしておられて、なるほど、そういうものなのかなどと色々教えられた。ただ、そのような貴重な内容は、私がここで紹介するより、直接、当事者の方々の言葉で読まれた方がいいだろうから、ここでは、そうした療養生活のあれこれではなくて、星野氏がキリスト教徒になられたいきさつについて触れてみたい。というのも、そのいきさつの中に現れる「偶然」の数々が興味深く、江戸時代初期の群馬方面のキリシタンの存在をも思い出させるものだったからである。

 星野氏がキリスト教徒になったいきさつについて書く前に、まずは、江戸時代初期の群馬方面のキリシタンについて見ていきたい。群馬方面にキリスト教の宣教師が直接入ったのは、1607年のことで、西日本と比べるとだいぶ遅かったが、それ以前に、すでに前橋(厩橋)の辺りに、数名のキリシタンがいたという。前橋(厩橋)には、川越から酒井重忠が移り、その次男・忠李の室が、キリシタンと縁の深い有馬家(有馬直純の妹か)だった関係から、その輿入れにともなって、信者らが前橋に移ったと考えられるようだ。この後、日本のキリスト教は迫害期に入っていき、西日本のキリシタンが、次々と東日本を経由して佐渡や東北に逃げて潜伏し、当時、治外法権的な場所になっていた鉱山やその周辺は、その潜伏先になりやすく、足尾の鉱山にもキリシタンがいたことがわかっている。足尾で金掘として潜入していた東庵というキリシタンが、足尾から群馬県の沼田の北方の三峯山麓の師村と戸神村の金山に入り込み、沼田の東北の武尊山麓の川場村に移動したが、のちに出奔して行方不明になったことが、東庵の類族調書からわかっており、これによって、足尾・沼田を結ぶキリシタンの布教ルートや、キリシタンの鉱夫としての地下活動が実証されたらしい。1657年6月の宗門奉行所の覚書「契利斯督記」のうちの「吉利支丹出申国所之覚」によれば、沼田から「宗門多出申候」となっていて、同じ資料によれば、高崎や壬生からもキリシタンが少し出て、厩橋(前橋)からも「宗門四五人出申候」状態だったようだ。このように、前橋や、足尾とそこにつながっていた沼田周辺にはキリシタンがわりといたのは間違いない。

 さて、時代は変わって、星野氏の話である。星野氏は、大怪我によって、病院で9年間生活することになったが、そのときに、検査技師をやっていたキリスト教徒の方に三浦綾子氏の『塩狩峠』を渡されたり、大学の先輩から『聖書』を渡されたりしていたらしい。ところで、星野氏がキリスト教に触れたのは、この9年間の病院生活のときがはじめてではなかった。裏の畑の土手に「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」と書かれた真っ白な十字架が建って、高校一年生の頃から、なんだろうなぁと思っていたらしい。ただ星野氏の育った村には教会もなかったから、当時は、この十字架とそこにかかれた文章がなんだかよくわからなかったそうだ。それから何年も経って、上述のように長々と入院することになって、義理に縛られて、嫌々聖書を開いてみたら「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ福音書11章)という言葉がみつかって、裏の畑の十字架の謎の言葉はこれだったのか!とわかり、わりと素直にキリスト教徒になられたそうだ。さて、星野氏に『聖書』を持ってきた くだんの大学の先輩なのだが、この先輩が前橋キリスト教会の信者さんだったという。その関係で、星野氏もこの前橋の教会の舟喜拓生牧師から洗礼を受けたそうなのだが、その舟喜牧師を通して、星野家の裏の畑の十字架を建てたのは足尾の人だったとわかったのだという。というのも、舟喜牧師のおとうさんが、昔、足尾でキリスト教の伝道をしていて、その時、その教会に来ていた人が、なんと星野氏の裏の畑に十字架を建てていたのだ。(ちなみに、星野氏の出身地は、足尾と前橋の間に位置する。)この頃は、足尾銅山も盛んな時代だったらしい。

  つまり、足尾、前橋といった、かつてキリシタンが比較的多く存在したと思われる場所で、近代になって、再びキリスト教が活動的になって、それが、昭和時代の星野氏に影響を及ぼしたというわけである。日本のキリスト教史において、キリシタン時代と近代の間には大きな断絶があったはずだが、この偶然の重なりが個人的には印象に残った。ひょっとしたら、舟喜牧師のおとうさんは、かつて足尾にキリシタンたちがいたことを知っておられて、その上で、足尾で活動されていたのだろうか??

(参考資料
①海老澤有道著「北関東の切支丹」『切支丹風土記 東日本編』宝文館、S.35年)

キリシタンと鉱山は、わりと縁が深かったようです。↓

 

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