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学びの根源

おはようございます。
今日は朝から涼しくて、風が湿っているのが逆に肌に纏う感じが心地よい。

今日はクリスチャンの僕が昨日日曜礼拝の説教を聞いて、気付いたことをまとめておきたい。

クリスチャンとしての学び

昨日の説教は「不当な苦しみを受けるとき」というもの。
そもそも、ちょっと「え」ってなるお題だけれど、「それは神様からの恵みだ」という結論で(理由を聞けばクリスチャン的には結果的にふんふんなんだけど)クリスチャンではない人からすれば余計になんで?と思いかねない説教だった。

不当な苦しみと聞いて、皆さんはどんな状況を思い出されるだろうか。
一方的な軍事侵攻や自然災害で家族や安らげる我が家を失うことかもしれないし、自身が置かれた状況での上司や同僚との人間関係の悩みかもしれない。

自身が悪いことをしてそれに対して真っ当な罰を受けることは理解できるが、悪いことをしないのに罰(=不当な苦しみ)を受けるのは納得がいかない。これは当然なことだと思う。
しかし、クリスチャン的に言えば、これはそれは十字架に磔にされ人間の罪を贖ったイエス・キリストと同じ苦しみを味わうもの、模範となるイエス・キリストに続くものとなるためのステップでなのだ、という。イエス・キリストが残した足跡に従うことは、イエス・キリストが歩いた死を乗り越え神の来臨に預かる希望の道を歩くことを意味する。当然その道のりは主が見守ってくださっている、だからこそ平静に受け止めて希望を持って安心して歩みなさい、という訳だ。
そう言われてみれば、過去にあった不当な苦しみを今振り返ってみれば、それがあったことで今に繋がって来ることも多い。『それのお陰』とは今なお思えないけれど、それを耐え忍んだことで自分が得られた感覚や視点、気持ちなど間違いなくあるな、と。
だからこそ、苦しみから逃すことが神の御業ではなく、一緒に乗り越えていく成長させてくれることが神の御計画であり「恵み」だと言われれば、僕は納得できたし他の教会員も自分の人生の経験を踏まえて同様に感じられた方も多いと思う。
(だからと言って今苦しい中にある人に『貴方も頑張れ』なんていうつもりはもちろんなくて、まずは相談できる人に相談して今の状況が改善される様に願います。)

そしてこうわかっていたら、『不当な苦しみ』の中にあっても、少しだけでも気持ちは楽にポジティブになれる気もする。

もし、説教自体に興味がある方はこちらで聞いてみて欲しい。(僕の要約がまちがってるかもしれないし笑)
銀座教会礼拝 9/15配信分(説教自体は20分から聞けます。)

人間関係における、教育の重要性

上で僕が思い出したのは人間関係だったけれど、この説教を聞いている時に思ったことがある。
話は逸れるが、人間関係を難しくしているのはコミュニケーションの仕方なんじゃないか、ということ。

そもそも、悪いことをして罰を受けるのを当たり前、と思う人は多いだろうけれど(そう信じたい)、そもそも悪いことをしても罰を逃げられるものなら逃げてやりたい、という人もいる。中には社会一般で言えば間違っているのに自分が正しいと信じて自分に対して望まざる反応が来た時に憤る人すらいる。

それぞれに倫理感、特に他人にどこまで何をしても良い距離感が大幅にズレていてその足並みが揃わなければ、人は不安でそのコミュニティで気持ちよく過ごせない。
例えば自分の意見だけを好き放題言う人間は、対岸の火事くらいの距離感で見ていれば面白いかもしれないが、それが自分のコミュニティや自分の間近にいたら迷惑以外の何モノでもない。声が大きいだけでも威圧的に聞こえるのに言葉遣いが乱暴だったり、(休憩室があるのに)締め切ったオフィスの中で匂いが強いお弁当をデスクで食べる、など自分の違和感は当人にとって当たり前なのだろう。

人間関係における一番大きな問題は、価値観が違うことではなくて、そもそもコミュニケーションが著しく乏しいことにある、ということではないか。
人は社会性のある動物で社会の中で生きていくものだから、ある程度のルールがあってその中で皆生きている。だからこそ、早ければ保育園や幼稚園から社会性を養う訓練をして、義務教育からさらに進学したり社会に出るまでに、人として社会性を最終的に『社会人として』身につけていく。だが、この方法に頼り切ってきた結果が人間関係の難しさを生んでいる様に思える。

  • そもそも人は自分とは違う考えを持っている。

  • 自分とは違う感じ方をする。

  • 自分が認めて欲しいなら自分もまず相手を認める必要がある。

  • 相手がどういう風に感じて考える人なのか(直接聞くのがベストだけど)相手の様子を敬意を持って観察する。

こうしたことを、形式化せずになんとなく教育期間を過ごしてしまうよりも、ちゃんと教える必要があるんじゃないか。数学で論理的な考え方を、体育で体の動かし方を教える様に、自分と人との距離感の測り方を教えるべきではないか。
学問を学ぶ前の、人としてのあるべき姿を教えて育てていくことが教育なんじゃないか、と、ふと思い当たった。

昔の様に皆が思い浮かべる幸せの形が同じだった頃と、価値観もコミュニティの作り方も大きく変わった今とでは、同じ教育で対応するには無理がある。
海外に行って日本の良さ・悪さに気付けるように、他者がいて初めて自分が見えてくる。ちゃんと他人を違う存続として認識させて適切な距離感で付き合える様に、そのきっかけだけでも教育という形で伝えることが大切だと思う。

自分の持ってる個性はそうした社会的動物の人間としてのベースの上で発揮されるものであって、このベースなしに自分本位に発散される個性はただのエゴだ。そうすることももちろん個人の自由だけど、相手を思いやる気持ちを持っていた方が自分がより幸せになれることをいつかその人も気付けたらいいなと思う。



僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。

皆様も、良い週末を。


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