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生きているということ、万物が波というリズムだということ

はぁい、ゆかりです🙋‍♀️
生きることの積極的な意義や意味を見失い一週間ほど廃人のように生活。
家の内側が自分の行動範囲全世界というこの破壊力に、思考の迷宮へと逃亡するも、結局自分からは逃れられないわけで。
内観内省が趣味の方は、やや分かち合えるかも知れないですが。
読後、突き抜けて明るい爽快感は望めませんのであしからず。

【数日間抱えているモヤッと】

地元に戻ってからこの元の生活の場で、氣の滞りを感じている。
おなかは空かないから食が細くなる。
にもかかわらず胃痛がある。
夜間なかなか眠れず、うとうとしたかと思えば覚醒する。
かと言って昼間に眠りがひとときでさえ訪れることもなく。
なにやら今はよくないなぁ、って頭をくるくる巡る何かを見つめる。

地面下に潜り込んでるくせに、足はついてなくて、浮かんでいる。
なんにも夢中になれることがない、とすでに知っているから。
何かに夢中になったり、楽しんだり、執着しているように振る舞って。
心が続かない自分に気づくも、素振りは続けられる自分に侮蔑の視線をさっと送ったり、そしてそれを無視したりもする。
生きながら死んでいるようだ、と実体験する日々。
氣力や活力が自分由来で一向に出ていないようにすら感じるが、そんなはずもない。

【今朝の私】

今日は外出の予定だった。
けれども、寝床から動きたいと思えない。

昨夜も殆ど眠れず。
寝たかと思えば、夢うつつ夢つづら、自分を感じながら浅い眠りに入っているのだという自分に気づき、目を開ける。
目覚ましはまだ鳴らない。
鳴ったとしてもそれがどうだと言うのだ。
あ、出掛ける予定だった。
久々に劇場に足を運んで鑑賞したい映画が2作品公開されている。
純粋に楽しみにしていたし、動かぬ自分の流れに変化を灯すことができるだろう、という楽しみもあった。
それなのに、全く楽しい感にのれずに。
あぁ、そうだ、今日は満月だ。
予定通り街に出たら、いろいろと満ちただろうに。
と、どこどこまでも、落ちる。

それならば、せめて、せめて、と額の間がもぞっと蠢く。
明るい時間帯に外の空気吸おう、身体を動かそう、お参りなら祈れるから。
そうしたらどう?
と、どこまでも暗くなりたい自分に、少し離れた位置から提案してみる。
神仏習合は自分に馴染む。
徒歩圏内で一番近い二箇所に足を運ぶことに、同意できたようだ。

そう決めてからも、なかなか動きたがらない心と身体をめいっぱい感じる。
いいよ、今日は乗らないんだよね、ゆっくりでいいから、と。
励ますような、ほったらかしつつ勇気づけするような。
自分はいったい、何人くらいを自分の中に内在させているのだろうか、などと答えの分からない問いをまたひとつ、投げかけたりするのだ。

【やきもち地蔵尊と箕谷神社へ】

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重たい心身は陽が高くなってからようやく動いてみようという気になり。
外に一歩足を踏み出すと、私の内側がどうであれ思いのほか世界はあたたかくやさしいことを知る
身体を使うと、五感ものびのびと豊かに本来の羽根を自由に広げていくのがわかる。
私は喜んでいる、この世界に在ることを歓んでいる、と思い出す。
が、高く華やぐのはほんのひとときで。
やはり先ほどまで居た重たい場所に沈みたがる心も感じていた。

こんな内面だからか、観音さまや白竜やお稲荷さんをいつもより感じられなかった。
それは私の問題で。
いつも近くに在わす、という前提は当然あるにせよ。

【思考グルグルを言語化】

ん?でも、待てよ?
なんか直接落ち込むようなこと、あった?
自問する。
ようわからんが、ずっと死に想いを馳せている。
むしろ内面世界は8割以上が、それ。
まぁようわからんが、サイクルがそういう時期か。
万物は波のようにリズムを持っているから。
星の流れや宇宙の流れ的には、確か10月って良くなっていくのではなかったか?
それは感じ取れているのに、この世界に在るただの私は反対方向に引っ張られるのは、いったいなんなのか。
どんなに深く考えたところでわからないし、氣も上がらないかなぁ、しばらくは。

朝が来ると、「今日もまた生きている」と、自分に軽く絶望してため息を吐き、それすらも意味を持たないな、と思いながら一日を始めようとする。
ただただ思い直すと、このことは本来は私には馴染んでいることで。
あ、むしろ自分にとって、普段通りなのか。
最近は外や他者との接点がほぼないから、もたらせるストレスも殆ど感じない。
それと引き換えに、人からもたらされるステキな心や感情も感じないのだ。
誠に万物は、陰陽共存で。
それは矛盾しているように見える一面を有するのだが、その矛盾こそが人である由縁なのだろうか、と改めて感じる。
人はそもそもひとりで生きておらず、ひとりなら存在意義すら「無」に帰すのだ。

そして、なぜかふと、自分の名前の由来や意味に想いが進んでいく。
名前の由来になった古今和歌集の一歌からは、もともとは"紫"を"ゆかり"、と読む事実も解説もなく。
解釈に"縁"の"ゆかり"とは明記されているが、"紫"は和歌の中でも"むらさき"と詠まれている。
そして歌の中の"紫"は、具体的には紫草を指している。
その"紫"とは比喩として詠み人が心を寄せる相手のことで、一帯に咲く紫草の白い花を見た詠み人はそれらを心寄せる相手の縁のある全ての人として見立てて、愛しい相手と同様に全て愛おしく思う、と。
そんな主観と博愛を統合させた歌
源氏物語作中にて、光の君が紫の上に贈った歌の本歌とされており、古今和歌集詠み人知らずの雑記で最も有名な一歌。
物語でも"紫"を"ゆかり"と詠まず、読み方の事実は明記されない。
「縁=ゆかり」が歌を象徴する"紫"に付した、という解釈で腑に落とす。
なんとも独特な由来をもつ和歌から、名前をいただいたものだ。
つまり、私の名はもともとは"ご縁"という意味、だということ。
よい名をいただいた。

客観視すれば、完全にテーマが飛躍するこの思考の迷宮
私はものごころついた時から、この思考の迷宮の世界に入り、考え、遊び、存分に迷子を味わってから、また元の次元の空間へと、ゆるりと戻ってきていたのだ。

【お参りから帰って】

闇の中でそこからあまり動きたくなかった朝から、今、心は新たな感謝で凪いでいる
闇の中にいるからこそ、いつも一筋の光を見出し見失わないでいられる
それに気づける自分だから。
死への想いはいつもそばにあるが、きっとだからこそいつも大丈夫な自分
「破壊(死)と再生」それは幼少期から自分と親しい。
そう確かめた、ただそれだけのことだったのだ。

それにしても日本住宅とは、夏向きの造り、なのだな。
家の中が寒いので、防寒対策をしっかりして外に出ると。
太陽の恵みは予想を遥かに超えるほどに大きい
更に身体を動かすことで、自分から発生させる熱によって、身体も温まる。
しかしどうだろう。
家に戻って活動が沈静化した頃には、すっかりと身体を冷やしていることに気づく。
すごいな、すごいな太陽、いのちを分けてくれているのだな
ありがたい。
誰しもが、そうだ、他の人と同じように私をも含めて全ての人を大きな何かが全肯定で包んで支えてくれている

うん、きっと私は今日も明日も、絶対に、大丈夫

【結びに】

こんな個人的な文章を最後まで読んでくださった、そこのあなたに。
ありったけの祈りの気持ちを感謝に替えて。
ありがとうございます。
読んでくださる方がいるのだなぁ、と思うと心に良い香りのアロマキャンドルが灯ったような心持ちになります。
愛情を渡してくださるご厚意に、今日も感謝

あなたの明日が今日よりも、あたたかなふんわり感に満たされていますように
またお会いできますよう。


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たかしまゆかりん
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