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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三十一話
第二百三十一話 山風(十一)
何とも重い荷を引き受けたものである、と小宰相は深い溜息をつきましたが、姫君が生きておられることを知れば薫君を自責の念から解放できるに違いないと己を叱咤するのです。
しかしながら訳知り顔で遠慮なく君の心に踏み込むことは憚られるので、あくまで慎重に切り出さねば、と気を張っております。
ほどなくして薫がやはり来られたのを複雑な面持ちで迎える小宰相の君なのでした。
「小宰相、久しぶりだね。こんな趣深い宵にはあなたと話がしたくなるよ」
「薫さま、そういっていただけると嬉しゅうございますわ。実はわたくしも君にお伝えしたいことがございますの」
「あなたのほうから話とはいったい何だね?」
「ええ、先頃不思議な話を耳にしたもので。あれは一品の宮さまが物の怪に煩わされた折でございます。横川の僧都さまのお力で宮さまが救われたのを喜んだ中宮さまが僧都さまに労いの言葉をかけられた時のこと、徒然の語らいのうちに僧都さまが経験された妖の話などをされました。ちょうど一年ほど前の春先に僧都さまは母尼君に付き添って初瀬の観音さまへ詣でられたそうでございます。その帰り路に物の怪に攫われた女人を宇治院にて助けられたとか。その姫は妙齢で見目麗しく、とても賤しい身分とは思われぬご様子で、これも観音さまのお導きかと懸命な祈祷の末にその姫の命を繋ぎとめられたそうでございますよ」
「妖が女人を攫ってきたというのか?」
「はい。その姫君が世を儚んでいることに付け込んで彼岸へ連れ去ろうと目論んだとか。しかしながら姫は観音菩薩さまの護りが厚く、思ったようにはいかなかったようでございます。わたくしはもしやその女人は浮舟姫ではあるまいか、とはたと思い当ったのですわ」
「なんと・・・」
薫は予想もしなかった小宰相の話に言葉を失いました。
浮舟が生きて世にあるかもしれぬ、ということが不思議に思われて、嬉しい気持ちもあれば複雑な胸中なのです。
「その姫の身元について確実なことはわかりませぬので何とも申し上げられぬのが歯がゆいのですが、時期頃などを考えますと、恐らくは」
それにしても浮舟の存在は知られておらぬ筈であるし、その死に関しても厳しく箝口令が敷かれていたものが、小宰相が姫の名まで知っているのをまこと世に漏れぬ秘密はないことである、と驚く薫なのです。
「その姫は今は息災に暮らしておられるのか?」
「はい。しかし残念ながら姫のたっての願いで僧都さまが自らの御手で髪を下して差し上げたそうでございます。姫君は生きて世にあることをひた隠しになさってその名もいまだ誰も知らぬということですわ」
薫にそれは浮舟であるという確信があるのは、なるほど死を覚悟した姫が心ならずも永らえたのであればそうあろうか、と思われるからです。
「あまりのことに何と言えばいいのか混乱しているよ」
「そうでございましょうとも」
「その話を知っているのは他にいるのだろうか」
「中宮さまの御前にはわたくしのみでございました」
「そうか、よく知らせてくれた。ありがとう」
「薫さま、その御方が浮舟君であればよろしいですわね」
「うむ。またゆっくり会いに来るよ」
「はい、お待ちしておりますわ」
思わぬ深山から吹いてきた風の便りに、心ここにあらずといった体で局を去る薫の後姿を小宰相の君は愛しげな面持ちで見送るのでした。
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