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令和源氏物語 宇治の恋華 第百八十八話
第百八十八話 翳ろふ(八)
薫の心はいつまでも晴れまい。
それは再びの愛を喪ったこととて傷が癒えることはないのです。
庭先にある花橘が香るのも、ほととぎすが鳴くのも今は殊更に沁み入り、つい涙を浮かべずにはおれません。
そういえば橘もほととぎすも亡き人を思い起こさせるもの。
ある古歌が薫の脳裏に浮かびました。
亡き人の宿に通はばほととぎす
かけて音にのみ泣くと告げなむ <古今集>
(冥途の鳥と呼ばれるほととぎすよ、亡き人の元へ行くならばあなたを想って私が泣いていると伝えておくれ)
薫は橘の枝を手折らせて匂宮へ歌を送りました。
忍びねや君も泣くらむかひもなき
死出の田長に心通はば
(甲斐なく死んでいった儚い浮舟を想い、あなたも忍び泣いているのでしょうか)
まさにあてつけた歌でありますが、薫が一人で苦悩を抱えているのに対し、匂宮は妻の中君と悲しみを分かち合うことができるのです。
浮舟が中君の異腹の妹であったと知り、宇治へ通ったことのすべてを妻に打ち明けておりました。
夫の浮気な気性をよく知る中君は今さら悋気など起こしませが、ただただ自分だけがのうのうと生き残ってしまったことを情けなく思うばかり。
そんな中君の鷹揚な気質を改めて好もしく感じる宮はしばらく六条院にも通わずに夫婦二人で浮舟を亡くした悲しみを慰め合っているのです。
「ねぇ、薫からこんな手紙が来たよ」
「薫さまはあなたと妹のことをすべてご存知だったのですね。罪なことをなさいましたね」
ちくりと夫を非難するも、芯の強い北の方らしい。
中君はまさに権門の夫人に相応しい女人となりました。
「やれやれ、こなたも私には手厳しいな」
匂宮は溜息をつくと返事をしたためました。
たちばなの薫るあたりは時鳥
心してこそ鳴くべかりけれ
(ほととぎすよ、薫の庭先の橘ではあまり鳴かないでおくれ。私はまた恨まれて苦しいことのなるのだから)
「もしもあの姫があなたの妹であると知っていれば探し求めて我が物とはしなかったよ。最初に言ってくれればよかったのに、あなたが姫を隠したのでやっきになってしまった」
「わたくしのせいだとおっしゃるの?いいえ、あなたは妹と知っても求めたに違いありませんわ」
何でも思うままに生きてきた傲岸な宮がそう簡単に女人を諦めるはずもない、と中君は夫をよく知っているのです。
「やれやれ、まぁ、今となっては詮無いことではあるが」
「わたくしは薫さまに幸せになっていただきたかっただけですわ。妹にも」
そう言いさして口を噤む中君は悲しげに項垂れました。
「あなたにそんな表情をされると私は本当に辛い。せめて亡き人の冥福を共に祈ろうではないか」
宮は女人に酷なことをなさる御方ではありますが、こうして労わる気持ちも心からのものなので、中君はついつい夫を憎むことができなくなるのでした。
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