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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三十八話

 第二百三十八話 夢浮橋(五)
 
横川から戻った薫はその夜、興奮のあまりに寝つけずにおりました。
深更の風が耳に迫り、遠く近く響く音は潮の満ち干にも似て、遠い記憶や懐かしさを交錯させるのです。
常ではない昂ぶった心境に翻弄されて、冷静沈着な君にしてはいつになく感傷的でありました。
「惟成、おるか?」
「は、いつでも君の御傍に」
そうしてうっすらと惟成の影が浮かび上がるのに安堵の溜息を吐かずにはいられません。薫にとってすべてを見知るこの乳兄弟こそ唯一心を許せる友でもあるのです。
「近う」
「はは」
薫は自ら注いだ杯を惟成に差し出しました。
惟成はそれを飲み干すと情愛のこもった眼差しで我が君、と仰ぐ。
「惟成、私は苦しくてならぬ。浮舟が生きていると聞いても諸手をあげて喜べぬ、狭量でさもしい自身がいるのだよ」
「・・・。」
主人の独白を惟成は押し黙って聞くのです。
「宮さまならば形振り構わずに浮舟を迎えに行くであろうな。そんな情熱に女人はほだされるものだ。いっそ宮さまに浮舟の存在を告げて潔く身を引こうか」
「浮舟姫はそれで幸せになれるのでしょうか」
「愛する者同士が結ばれるのが幸せというものであろうよ」
「浮舟姫は君と宮さまとどちらも選ぶことができなかったので命を絶とうとなさったのではありませぬか?」
「さぁて、そればかりは浮舟の胸の裡のことゆえなんともわからぬな。宮さまを慕われているのならば添わせてやるべきである。私としては面白くないが、死のうとまでした人をこれ以上不幸にはできぬ。世間に何と言われても還俗して母君とも昔のように会えるのが浮舟にとってはよかろう」
「お可哀そうですが、確かに世間には物嗤いの種となりましょう。しかし姫にとって幸せとなるならそれも致し方ありません」
「まずは浮舟の心を知るのが肝要であるよ。明日小君を遣わす。お前も行ってくれるか?」
「もちろんでございますとも」
惟成はあくまでも浮舟姫によかれと考える君に懐の深さを感じずにはいられません。
「なぁ、惟成。宮さまと私は鏡に映った光と影のようだとは思わぬか。性格も風貌も何もかもがまるで真逆だ。以前人に言われたことがあるが匂宮が陽の宮ならば私は月の君、とな。私に無いものを持つ宮さまが時に妬ましく、羨ましい」
惟成はふと笑んで君に向き合います。
「確かに日輪は辺りを照らし生命を育むありがたいものではありますが、月は癒しを与えてくれまする。私は月読に心を寄せずにはいられません」
「嬉しいことを言うてくれるではないかよ」
「我が君は御身のみ、それがこの惟成のまことでございます。終生変わることはございません。それに陽の光ばかりが強烈に世を照らし続けたならば命は生きてゆけませぬ。それは浮舟姫もおわかりになっていらっしゃるでしょう。ですから己をなくそうとされたのですよ」
薫は無言で自らの杯を満たして飲み干しました。
「いつも思うが惟成あっての私であるよ。私もその忠義に報いたい。何かあれば遠慮なく言うのだぞ」
「それではさっそくお願いをしてもよろしいでしょうか?」
「うむ」
「久しぶりに殿の笛が聞きとうございます」
「そうさな、こんな葉擦れのさやけく宵には相応しかろう」
薫は懐から亡き父・柏木の遺した名笛『清雅』を取り出しました。
透き通った笛の音はどこか哀切でまるでこの君の心を映すようである、と惟成は耳を傾る。
するすると夜気に溶ける音色は山を越えて浮舟姫へと届くであろうか。

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