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令和源氏物語 宇治の恋華 最終話

 最終話 現世光(うつしよのひかり/三)
 
翌日、僧都は山を下りて小野の草庵へと向かいました。
それはまことの御仏の弟子となる決意を示した姫の尼を導く師としてのもの。
しかし庵に向かう一本道で思わぬ貴族の一団に行き会ったのを訝しく頭を傾けられました。
その貴族というのは妹尼の一人娘の背であった中将です。
「これは僧都殿、小野の庵に行かれるのであればご一緒なさいませんか」
するすると車の御簾が引き上げられて風流人を気取った中将はにこやかに誘いますが、僧都はその心根があさましいのを見抜きました。
「いったいこのような時間に尼たちが住まう庵に何のご用ですかな?」
「勘繰らないでください。私は度々尼君をお訪ねしては慰めて差し上げているのですよ。本日は鷹狩の帰りでして、獲物をおすそ分けしようと考えただけでございます」
「左様でございますか。しかしあちらには若い女人もおりますので感心できませぬな。よもや姫の尼君に懸想などなさっては仏罰を蒙りますぞ」
僧都の眼光は鋭く射抜くようで、図星を刺された中将はきまり悪そうな表情を浮かべて車の向きを変えたのでした。
小野の庵では僧都を歓待しましたが、当の僧都が難しい顔をなさっているので妹尼は何事かと不安に駆られます。
「先程こちらに来る途中でお前の姫の夫であった中将に会いましたぞ」
「ええ、今でもよくこちらにお越しになります。お優しい方ですのよ」
「なんと愚かな。お前にはあの中将が姫の尼君に邪な想いを抱いているのを見てわからぬのか?」
「何をおっしゃるのです」
「おお、女人とはなんと愚かであるのだ。中将の様子を察するにこちらの女房などのうちに加担する者がいるのであろう。以後気を付けなされよ」
それだけを険しく言いつけられると、僧都は姫の尼君の御座所へと向かわれました。
「姫の入道よ、よろしいかな?」
「はい」
経文を諳んじていた浮舟は手回りに開いたままになっている経本を手早くまとめて僧都を迎えました。小君の携えた文に還俗を促しておられたので、もしやそのお話では、と背筋に緊張を覚えるのです。
「まぁ、そう緊張なさらずともよろしい。別に説教をしにきたわけではないのですから」
「はい」
ほうっと肩の力を抜く姫ですが、やはり薫大将のことであろうと気を張り詰めております。
「昨日薫君がお越しになり、どうやら探している御方とあなたは別人であったと仰っておられました。しかしながらうら若き女人が尼になられるとはその心ざまの清いことにたいそう感心されまして、これも何かのご縁と多くの寄進をいただいた次第なのです」
「まぁ」
「あなたが終生困らぬほどの物をお預かり致しました」
「別人であるならばなおさらそのようなお気遣いはいただけませぬ」
「そう仰いますな。人である限り暮らしてゆくにも先立つものが無ければ立ち行かぬのが現状です。君のご厚意をありがたく受けるべきですぞ。そしてあなたが君に感謝されることで君はさらに功徳を積むこととなりましょう。そうお考えになさい」
「はい」
そうは言っても僧都は事の真実をご存知であろうと、それも恥ずかしく、浮舟は薫君の配慮に涙が溢れるのを止められません。
僧都はこの女人が深い苦悩の末に御仏に縋った哀れを思い遣らずにはいられないのです。
「日々精進しなされ、それが御身の為になることですぞ」
「はい、ありがとうございます」
そうして頭を垂れる姫にこのことは言うべきか、言わざるべきか。
しかしいずれは耳に入ることもあろう。
「薫君の北の方さまは御子を授かったそうな」
「・・・さようでございますか」
もしも宮とのことが無ければ女人として子を産み育てるという幸せもあったのかもしれぬ、とふとした夢が脳裏を掠めますが、それを今さら考えたところで何になりましょう。
「おや、風が出て参りましたな。出家したといっても我々は人であることに変わりはありません。哀れも感じますし悲しみも致します。苦行に慣れた山伏でさえ山風にむせび泣くこともあるといいます。悲しい時には泣いてよいのですぞ」
僧都はそれだけを言い残すと姫の元を去りました。
 
 
時は移ろいゆく。
すでに過ぎ去ったその時に戻ることはできません。
浮舟の心裡に渡る風はわびしく物悲しく響きますが、すでに女人としての人生は充分に生きたように思われるのです。
愛ゆえの悩み、苦しみ、すべては一瞬の光としてその胸に納められ、いつの世にかまた君と巡り会うことがあるならばしっかりと向き合える己でありたいと願うのです。
 
どうか、あの御方が幸せでありますように。
 
そう願わずにはいられないのは紛れもない女心なのでしょう。
 
<完>

オリジナルの終章をくわえた全245話。
『令和源氏物語 宇治の恋華』完結となりました。
最終話まで読み進めていただきまして、ありがとうございました。

青木 紫


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