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令和源氏物語 宇治の恋華 終章 第二百四十四話

 第二百四十四話 終章 現世光(うつしよのひかり/二)
 
女二の宮の懐妊はまたたく間に噂となって世に巡る。
しかしながら遮蔽された世捨て人の里には届かぬことよ。
薫はお主上を始め殿上人たちからの祝いの使者をもてなすので宴を催しました。
もちろんこうした祝い事には即座に駆けつけるであろう匂宮も多くの贈り物を携えてやって来たのです。
「やぁ、やぁ。君がとうとう父親になるというのでどんな顔をしているのか拝みに来たぞ」
「宮、お久しぶりですね」
「なんだ、もっと目尻を垂らしているのかと思えば相変わらず取り澄ました奴だなぁ」
「人はそうそう変わらぬものですよ」
薫はそうしてにやりと笑みをこぼす。
それはまるで浮舟とのことで確執を抱く前の親友同士の頃に戻ったようで、男たちは時の流れをしみじみと噛みしめるのです。
 
宮と浮舟を裂こうとしたこともあった。
感情的に涙を流して詰ったこともあった。
しかし、もう恨むことはするまいよ。
 
わだかまりが消えてゆき、遠く済んだ空をそのまま心に映したように晴れやかな気持ちを覚えるのでした。

連日の宴も少し落ち着いた頃、薫は横川の僧都を訪ねました。
僧都は妹尼より浮舟姫のすげない仕打ちを聞いておりますので、薫君に申し訳なく感じていたものの、当の君が穏やかな表情を浮かべていられるのでほっと安堵されました。
「先日小君を姫の尼君の元へ遣わしましたが、どうやら人違いだったようでした。しかし何やらその尼君との縁を感じましたので今日は僧都殿にお願いがあって罷り越した次第なのですよ」
「はて、何でございましょう」
僧都は首を傾けましたが、薫君の願いというのをとくとくと聞くうちにやはり世にも稀なる御方である、とその申し出を快く承諾されたのです。
肩の荷が下りたように表情を崩した君の御姿は清く慈悲深い。
このような御方を前にして心に疚しきことがある者ならばさぞや眩しく感じられるであろう、と姫の尼君の気持ちが察せられる僧都なのです。
うちくつろいで御仏の学問などに興じて数時間も過ごしていると辺りははや陽が落ちようとしております。
「これは随分長居してしまいました。僧都殿のお話があまりにも面白くて」
「いやはや、御身の博学さには舌を巻いております。私もよい勉強になりました」
向学心に燃える無邪気な少年さながらの僧都の笑みを見て、薫は故・八の宮さまと語らった時のように心が凪ぐのを感じるのです。
「僧都殿、実は私は父親になるのですよ」
「なんと、それはおめでとうございまする。女二の宮さまがご懐妊なさったのですね。さぞお主上も喜ばれておられるでしょうな」
「それはもう。すでに産着なども届けられて大騒ぎですよ」
「喜ばしいことでございますね」
「はい、ありがとうございます」
薫はふとこの尊敬すべき聖に心の裡を漏らしました。
「私は幼い頃から自分がずっとこの世にあってはならぬのでは、と悩んで参りました。そうして救われたくて御仏に心を寄せるようになったのです」
僧都は静かに目を閉じて耳を傾けておられます。
「母は私が物心つく前に出家しておりましたので、親に愛された記憶は遠い昔、父・源氏と過ごした僅かばかりのこと。そんな私が親になるとは、果たしてこの私が子を慈しむことができるのでしょうか」
「御身は人の辛さも痛みもよくおわかりになっていらっしゃる。それは君が愛を知るが故でしょう。愛は御身の中にあるのです。心配ありませぬよ」
「はい」
薫は僧都に深々と頭を垂れたのでした。
 
陽が山の端に沈みかけ、燃えるように染まる野を金の光が渡ってゆく。
薫はその草の先に暮らす尼姫に語りかけました。
 
私にはまだまだ世を捨てられぬ柵(しがらみ)が多いことよ。
さらば、浮舟の姫。
己が道を定めた御身にはこの呼び名はもう相応しくなかろう。
あるがままに心清く生きよ。
願わくば健やかで波立たぬ平穏がもたらされることを。
 
以後、薫は浮舟の名を口にすることはありませんでした。



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