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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三十六話

 第二百三十六話 夢浮橋(三)
 
「あの子は姫によく懐いておりましたそうな。僧都殿、私のことはさて置いても姉弟の肉親の情は出家されたとて無くなるわけではありますまい」
「左様ですな」
僧都も老いた母尼と妹を近くに住まわせて気遣う身ですから薫君の言わんとすることはわかります。
そうした逡巡する僧都の心を読むように薫は訴えました。
「小君を姉君に会わせてあげたいものです。私も身分がら軽々しくは出歩けません。小野の姫君に手紙を差し上げるにはあの子を遣いとしようと思っているのです。しかし突然文を送ったとて庵では混乱されるでしょうね。せめて僧都殿からこういう子が行くからとお知らせいただければ騒動にもならずに済むと思うのですよ」
「仰ることもごもっともなことです」
姫の尼君が素性をいっさい語らないことから鑑みても小君が門前払いを受けるのは忍びなく、薫のような顕官からの手紙とあらば騒ぎになりかねません。
僧都はついにその一筆を承諾したのでした。
薫は内心このような画策を恥ずかしく思いましたが、いささかでも強引な手段を取らねば浮舟への道は絶たれてしまうでしょう。
頼りなくはあるものの一筋の橋が架けられたようで長く続いた苦悩に終焉の兆しが見えたのを嬉しく思わずにはいられませんでした。
小野にある浮舟は味気ない尼の生活をわびしく感じ始めておりました。
草深く青葉が繁ったこの里に身を隠していたいと願ったものが、やはりそうなってみると人に知られず朽ちてゆくのが物悲しい。
これもすべて薫君を裏切った報いであるか。
庭の遣り水に飛び交い始めた蛍の仄かな光を眺めては宇治で薫君をお待ち申し上げたあの頃を思い返す。
ただ君だけを信じてあった日々は穏やかで裡から溢れる愛に満たされておりました。
 
もしも戻れるならばあの頃に還りたい。
 
しかしあの頃にはその時間の大事さに気付かなかったでしょう。
物思いに耽る浮舟の視界遠くに灯が列を為して行き過ぎる。
ああ、まるで薫君が宇治へお越しになった時のようではあるまいか。
浮舟は懐かしさとせつなさに涙が込み上げるのを留めることができないのです。
 
先触れも控えめであるものの、光輝が漂う一団を只ならぬご身分と庵の尼君たちも噂するのです。
「先ほど僧都の元から遣いに来た人が言っておりましたよ。あれは薫る右大将さまの行列だそうですわ。薫君といえば御仏の学問にも造詣の深い御方、きっと僧都に会いに来られたのでしょう」
「当代一と言われる帝の婿たる御方とはいったいどのように素晴らしい殿方なのでしょうねぇ」
ほうっ、と溜息を漏らす女房を尻目に浮舟の心は穏やかではありません。
 
本当に薫君がすぐそこまでいらっしゃっている。
おお、確かにあの隋人の声には聞き覚えがあるものよ。
 
まざまざと甦る愛しさに、すでに出家した身には似つかわしくない感情であることと己を禁じる浮舟ですが、心ばかりはどうしようもないのです。
 
観音菩薩さま、どうかこの気持ちを消してくださいませ。
 
常にも無口である姫君が御仏に念じて押し黙るのを一団に見とれる面々は気付きもしない。
浮舟はよもや薫君が自分を見つけたとも考え及ばずに、己の中に残る愛の埋み火に翻弄されるばかり。
なんとも哀れな若い尼であることか。

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