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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百十六話
第二百十六話 小野(十)
九月も終わろうかという頃、尼君は初瀬の観音さまに姫を与えてくださったお礼詣でに赴くことにしました。
尼君は当の姫も一緒にと誘います。
「ご一緒なさいませぬか?初瀬の観音さまは霊験あらたか、きっと幸運を授けてくださいますでしょう」
素直に浮舟の行く末を案じた親切心からと理解できるのですが、かつて実の母や乳母などに勧められて何度か詣でた観音さまであります。
不遇な生活を強いられ、やっと出逢った薫君とも別れて、死ぬことも許されぬこの身にはその効験も及ばぬのであろう、とその気にはなれません。
そしてその長い道のりをまだ気を許せぬ他人である尼君と共にというのもどうしたものか。
「わたくしにはまだ長旅は無理かと思われますの。この度はご遠慮させていただきます」
そう角が立たないようにやんわりと断るのでした。
そういえば物の怪に攫われてこのような山奥にまで導かれた人であったよ、恐ろしい思いもされたであろう、と尼君もそれ以上誘うことはありません。
姫が写経をしようとして手元に置いていた紙にさらさらとしたためたのを尼君はちらと覗き見ました。
はかなくて世にふる河の憂き瀬には
尋ねもゆかじ二本の杉
(頼りなく生きているこの身が情けなく、とても初瀬の観音さまにお参りする気分にはなれません。ましてやどうして二本の杉に会いになどなど行けようか)
事情のわからぬ尼君ですが、おや、と思ったままを口を開きました。
「『二本の杉』とはお会いしたい殿方が二人いらっしゃるということかしら?」
軽い気持ちで冗談交じりに言われたものの、図星をさされて浮舟はさっと顔を赤らめました。
どうにか忘れ去りたいお二人のことであるけれども、どうして忘れることなどできようか。
浮舟は己の中にまだ焔の燻りが残っている、と自身を厭わしく感じずにはいられません。
どうか効験があらたかというならば、以前足繁く詣でた縁(えにし)とて、この困った心を消してくださいませ、と観音さまに祈る浮舟なのです。
古川の杉の本立知らねども
過ぎにし人によそへてぞ見る
(私はあなたの素性を知りませんが、まこと亡き娘の代わりと思っているのですよ)
浮舟の心を知りもせず尼君は自分の気持ちだけを詠んでいる。
まことの娘と思うならば意に沿わぬ縁を結ぼうとなさることはあるまいに。
尼君たちが初瀬へ出立すると草庵は人少なで晩秋の風が吹き込むように寒々しく、殊更に冬の訪れるわびしさが感じられてなりません。
人が多くあるならばなにくれとおしゃべりなどして過ごすものを大尼君と数人の老尼、少将の尼と左衛門の君と呼ばれる女房、それと女童のこもきだけであるのです。
このように心細い時にまた例の中将から手紙が贈られてくるとは。
少将の尼は手持ち無沙汰のこんな時ほど情に動かされやすいものと姫君のちょっとした返事でももらえぬか、と期待して手紙を運んできました。
もともと中将贔屓の少将の尼ですので、浮舟は警戒を強めます。
やはり手紙を開こうとしない姫君を少将の尼はかき口説く。
「お姫様、こんなに熱心な御方もそうそうおりませんわよ。お手紙が送られてくるうちが花というものですのに」
尼のくせになんと俗っぽいことを言うものか。
「俗世を離れようという身に花は不似合いかと思われまする」
浮舟は口元を袖で隠すと嫌悪感を露わに眉間に皺を寄せて顔を背けてしまいました。
なんと情も解さない姫君か。
少将の尼はこの姫君の美しいばかりに冷たげな面にじりじりと嫉妬をもよおさずにはいられません。
もしも少将の尼が二十歳も若くこれほどの器量を持っていたならば殿方の心を離さずに愁いもなかったであろう、などと浅薄この上なく、人にはそれぞれ負うたものに等しく悩まされることを察することができない。
浮舟が導かれた運命はあまりにも大きく、それだけに過酷なものでした。
過大な幸運はこれ以上にないほどの悲劇と表裏一体なのです。
当代一と言われる二人の殿方に愛された浮舟はその並々ならぬ縁の果てにあるかなきかの存在となり下がったのです。
このような境遇なれば生きている喜びもありはしまい。
そんな浮舟の心を誰が理解できようか。
さらにその身のぶざまさを思い知るごとに暗い淵に沈んでゆく。
さすがの少将の尼も尼君さまが大事にしている姫君ですので、これ以上責めることもできないのです。
機嫌を直してもらおうと思いめぐらせるも楽も歌もそうそう嗜まぬ姫なればいったい何がお好みなのだろう?
少将の尼は尼君が碁を好むことから、何気なく尋ねました。
「なぜにそうも物憂くなさっているのでしょう。気晴らしに碁でもなさいませぬか?」
常陸にあった頃、雅も何もないこととて、一時熱心に碁に打ちこんだことを思い出した浮舟は顔を明るくして言いました。
思えば常陸にあったあの頃こそ子供らしく、無邪気で今ほどの悩みもなく健やかに過ごしていた時でありましょうか。
「上手ではありませんが、つれづれの慰めには最適ですわね」
乗ってきた姫君を意外と感じた少将の尼ですが、彼女こそ些か腕に覚えあるところだったのです。その余裕から先手を姫君に譲りました。
ぱちり、と凛とした音に打ちなれた手つきは普段否とも応とも示さぬ姫君とは姿が違って見えるようでした。
なんと少将の尼はこの一番を勝つことが出来ませんでした。
次こそはと先手を取ったもののやはり勝つことはできず、姫の意外な才能に素直に兜を脱ぎます。
「尼君が早く戻られればよろしいですのに。御身がこれほどの打ち手ならきっと喜ばれますわ。実は尼君はとてもお強いのですよ。棋聖大徳と呼ばれる僧都の君もついぞ三番に一番しか勝つことが出来なかったのですもの」
「まぁ、わたくしなど足元にも及びませんわ」
「いいえ。きっとよい勝負をなさると思いますのよ」
嬉々として遊びごとを語る少将の尼をやはり見苦しいと思う浮舟は常の自分らしからぬことをひけらかしてしまった、と恥じ入るばかりなのでした。