令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三十九話
第二百三十九話 夢浮橋(六)
翌朝薫は小君を側近くに呼びました。
「小君、お前は亡くなった姉上の顔を覚えているかい?」
「はい。たいそう美しく優しい姉上でしたから」
「落ち着いて聞いておくれ。先日その姉上が生きてこの世にあると教えてくれた人があったのだ」
「ええ?姉上が生きておられるのですか?」
「うむ、しかしまだ確実なことはわからぬのでお前の母君には申し上げるなよ。事の真偽をお前に確かめてほしいのだ。責任重大であるがやってくれるか?」
「姉上が生きておられる・・・。はい、はい。もちろんですとも」
小君の脳裏には慕わしい姉の姿が浮かび、嬉しさのあまりに涙が込み上げてきます。
小君は大好きな姉が不憫で亡くなったと聞いた時には心底悲しんでおりましたので、再び会えるのが夢のように思われるのです。
涙を袖で拭いて、震え声を隠すように大きくはきはきと答える姿が愛らしく、この子を見ては浮舟も意地を張ることはないであろう、と考える薫なのです。
小君の頭を優しく撫でると惟成に預けました。
「それでは薫さま、行ってまいります」
「頼んだぞ、惟成よ」
「はい」
惟成は軽々と小君を抱き上げて鞍の上に座らせると自らもその後ろに跨りました。
「山道は揺れるでな。しっかりと捕まっておれよ」
「はい、惟成さま」
小君は着物の上から懐にある僧都の手紙と薫君のものを何度も確認し、初めて任された大役に顔を輝かせております。
初夏の爽やかな風が青々と繁った木々を揺らし、木漏れ陽の注ぐ小道は希望に溢れているように小君には思われるのでした。
陽が高く上る頃、小君とその一団は小野の草庵へと辿りつきました。
少ない人数での遣いですが、身なりの整った賤しからぬ人々に尼君たちは困惑して立ち騒いでおります。
小君はこのような粗末な庵に尼ばかりが右往左往するのを不思議に感じました。
本当にここに姉上がいらっしゃるのか?
とても似つかわしくは思われないのです。
よもや髪を短くして姿の変わった姉が草の根に紛れていようとは思うまい。
「僧都さまからのお手紙を持参しております。どうかお取次を」
しっかりと役目を果たそうと気負う小君は凛と顔を上げました。
僧都の妹尼は再び兄からの手紙を持ってきたという遣いをどうした次第かと見つめましたが、美しい装束を身に着けた理知的な子供が振る舞いもしとやかにあるのを、並みならぬ御方からの遣いではないかと訝しみます。
「兄からは今朝も文をいただきましたが、追ってからとはどうした理由でしょうねぇ。今一つよくわからぬことがしたためられておりましたので、もしやこのお文を読めば合点が行くかもしれません」
そうして受け取った手紙の表には『入道の姫へ 山より』と間違いない僧都の手蹟がありました。
浮舟が如何にとぼけても、もはや言い逃れのしようもありません。
尼君は御簾の下から小君に円座(わろうざ)を差し出しましたが、すぐにでも姉に会えると期待していた小君は面白くありません。
「このように隔てられるのは心外でございます。僧都さまも縁ある由をおっしゃっておられましたのに」
尼君はまじまじと子供の顔を眺めておや、と気付きました。
まだ少年にもならぬその面はすっきりとして、目鼻立ちの整った様子がどことのう姫に似ているように思われるのです。
「この手紙を姫に差し上げますので、しばしお待ちなされ」
そう言い残した尼君は姫の御座所へ向かいました。
浮舟はどうすればよいのやら、顔を青ざめさせて目を合わそうともせず、頑迷に手紙を読もうとしないのです。
「仕方がありませんからわたくしが読ませていただきますよ」
尼君はそうして手紙を開き、姫の素性を知ったのです。
入道の姫へ
本日こちらに薫右大将さまがお越しになりました。
御身のことを尋ねられましたので、宇治院にてお助けしたところから包み隠さずすべてをお話し申し上げました。
まこと誠実な君であらせられまして、御身のことを気遣っておられました。
あのようにご情愛の深い君にお背きあそばして出家なさったことは、僧侶である私が申すのも憚れらるのですが、却って人情にも背き、御仏の責めを蒙るのではないかと危惧致しております。
この上は前世からの宿縁をお間違えなさることなく、還俗なさって大将殿と添う道をお薦め致します。
出家の功徳は還俗しても消えるものではありませんので、そのことに関しましては伺いました折に追々お話申し上げましょう。
小君にお会いなさるのも懐かしく感じられることでしょう。
では、またその時に。
山より
「まぁ、そうでしたの」
尼君は姫が尊い身分でこのような処にあるべき人ではなかったのだ、と言葉を失いました。
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