令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三十二話
第二百三十二話 山風(十二)
中宮が宇治の山里に妖しの者があるというお話を持ち出されたのはこういうことであったかよ、と薫は動悸を抑えられません。
先刻はっきりと仰らなかったのはある程度の事情を察していられたからであろう。
きっと浮舟と匂宮のこともご存知で気まずく思召されたに違いない。
薫は浮舟の為にも世に漏れ出るべきではない秘事を今でも苦々しく、尊敬する姉上に知られたのも居心地の悪い気がするのです。
浮舟が生きていたことを嬉しく感じていたものが、もしや匂宮も姫の生存を知って以前のような苦悩の日々が戻ってくるのかと考えると気が塞ぐ。
否、すでに宮がこのことをご存知で中宮に口止めをなさっているからはっきりと仰らなかったのであろうか。
それならばやはり浮舟は死んだものと諦めて匂宮へ譲ってしまったほうがよい。
浮舟がすでに世を捨てた身であるというのも衝撃的な顛末でありました。
会いたいとは思うものの、今さら会ったとて仏道修行の妨げになりはしないであろうか、とまた逡巡する。
浮舟を思い切ってしまえと考えたすぐ後に匂宮ならば強引にでも浮舟を還俗させるに違いない、そうなれば罪障も深くなることよ、などと薫の心は思い乱れるのです。
薫は掻き乱された心を引きずったまま内裏を退出しました。
近頃側に召し遣っている童は実は浮舟の異父弟、小君という名のどことのう浮舟の面影を宿した美しい子供です。
小君はその日も付き従って参内しておりましたので、牛車の傍らに控え薫の退出を静かに待っているのでした。
「小君、ずいぶん待たせてしまったな。中宮さまにご挨拶をとばかり思っていたのがついつい話が弾んでしまってね」
「右大将さま、お帰りでございますね。すぐに車を出させましょう」
そうして牛を曳く姿もすっかり様になった賢い子です。
小君は特に浮舟に懐いていたということで、薫はまた複雑な心境になるのです。
「小君、もう遅いから共に車に乗りなさい」
「はい」
俯いた横顔がやはり浮舟と似ているのを、自分と浮舟は所詮赤の他人ではあるけれど、この子は血を分けた肉親であると痛感する。
ましてや浮舟の死を嘆き悲しんだ母君を思うとたとい出家して姿が変わろうとも娘の生存を知らせれば何をおいても喜ぶに違いないと哀れをもよおすのです。
もちろん真偽を確かめなければならぬのが先決で、しかし薫のもっとも気になるのは匂宮がこのことを承知しているのかどうかというところなのです。
数日そのことばかりに囚われて自邸に籠って煩悶する薫でしたが、恥をかなぐり捨てて中宮にあたろうと心を決めました。
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