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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百九話

 第二百九話 小野(三)
 
浮舟が目覚めて数か月、小野での質素な生活にも慣れた頃には秋風が軒先を掠める時期となっておりました。
我が国では春の暁と秋の夕暮れの優劣を述べるほどのしみじみとした味わい深い頃合いということになりましょう。
小野の庵は草茂く、その夕暮れに渡る風は情趣に満ちて、心を揺さぶられるほどせつなく美しいのです。
心を巌のようにして御仏に帰依しようと日々勤行を続ける浮舟の胸の裡にそんな隙間風が吹き込むのを留めることはできず、溢れ出る感情に翻弄されるばかり。
暮れてゆく陽を背景にそよぐ薄は手招きするように郷愁をそそる。
 
ああ、母上さまの元へ帰りたい。
何も心憂くことなく薫さまだけを信じ切っていたあの頃に戻りたい。
 
こぼれた水は今更戻ることなどないものをそう思わずにはいられないのです。
数か月たっても浮舟の物思いは尽きることはありません。
それも御仏の下された罰かと己を律して息を潜めるように暮らしているのです。
 
そんなある日、庵に来客がありました。
先触れの声も誇らしげで身分高い御方らしい来訪はかつて薫君が宇治へお越しになった時のことを思い出さずにはいられず、浮舟の胸は騒ぎました。
 
もしや薫さまがわたくしが生きていることを知られて迎えにいらっしゃたのではあるまいか。
 
そのようなことがあるはずもなく、そうあっては困ると思いつつも、密かに願わずにはいられないのが女心というものでしょう。
浮舟は普段は客人が来ると奥へ引きこもっていたのですが、この時ばかりはその貴人の姿を確認せずにはいられませんでした。
見知った下人はいないであろうか。
薫君の側近である惟成が車の傍らにはおらぬであろうか。
しかし牛車のしつらえも薫右大将と言われる雲居人の物ほど上質なものではなく、下人も君のところに仕えていたような気の利いた風采ではありません。
少しでも期待をした己を自嘲しつつ浮舟は奥の御座所へと下がりました。
 
 世の中にあらぬ所も得てしがな
     年ふりにたるかたち隠さむ
(どこの世と言ってここほど身を隠すのに適した場所はあるであろうか。隠遁者しかおらぬ場所なればわたくしを訪ねあてる人もないであろう)
 
まさに古歌にある通りの場所であるのです。
 
大尼君の庵を訪れたのは尼君の亡くした娘に通った婿で、現在は中将の地位を得ている貴公子でした。
中将の弟は禅師の君と呼ばれ横川の僧都の弟子にあたります。
出家した者とはいえ血のつながった兄弟ですので中将は度々山を訪れるのですが、この庵はその道すがらにあるもので懐かしい尼君を見舞おうと立ち寄ったのでした。
年の頃は二十七、八。
青年は老いた尼君を厭うこともなく、亡くした妻を偲ぶ優しいところのある人なのです。
常でさえあまり来客などない寂しい草庵ですので、こうしたきらびやかな一団が来られるのはどことのう気分が華やいで都暮らしを懐かしく感慨に耽らずにはいられません。
「娘を亡くしてこちらに引き籠ってからというもの、かつての華やぎも昔語りとなり果てました。ありがたいお越しで山里も明るく照らされるというものですわ」
尼君が感涙するのを、もう少し早く見舞ってやるべきであった、と同情する中将はやはり優しい気性なのでしょう。
「修行のお邪魔をしてはならないと遠慮して無沙汰がちになってしまいましたが、これほど喜んでくださるとは私としても嬉しいですよ」
そう言って人懐こい笑みを浮かべる中将が好もしく、心からおもてなしをしようと考える尼君なのです。
折から村雨などが降り始め、中将は親しんだ義母であるからとくつろいで妻のあった頃の話などをする姿もうちとけて、昔よりも貫禄のついた貴公子ぶりに尼君はどうして子供でも授からなかったものか、と惜しく思わずにはいられません。
出家した身ではありますが、この尼君はいつまでも昔の華やかな暮らしぶりを忘れることができないのです。
それゆえに再び得た娘(浮舟)をこの人と娶せたいという気持ちが頭を持ち上げてくるのは、かの人には酷なこと。
それは性急で軽率なことと自制しておりますが、このまましんみりと話し込んでいるとついいらぬことまで口走りそうで、尼君は早々に奥へと引き下がりました。
しかし皮肉なことに中将はすでに浮舟の姿を見つけていたのです。
中将は尼君が退出したのをちょうど良いと昔からよく知る少将の尼君を呼び出しました。
「公務に忙しくてなかなかこちらに足を向けることができなかったが、元気にしていたかね?」
「はい、おかげさまで息災に」
上品な尼姿の少将の君にさすがに姫の存在を即座に訪ねるのも気が引けて、当たり障りのない昔語りをする中将ですが、心はちらと見た乙女にばかり惹きつけられるのです。
「ところで先刻廊をまわって来るときに簾が吹き上げられて若い女人の姿が見えたのだが、どうしたわけであのような方が尼君ばかりの中にまじっているのだい?」
中将は好色心を気取られまいとさりげなくを装うのです。
「ちょっとわけあってお預かりしている姫君ですが、まるで亡き姫さまが戻られたように朝夕眺めて、皆慰められておりますのよ。それにしても目敏いこと」
「思いもよらなかったものでね。なに、ほんの好奇心だ。それにしてもどういう人なんだね?」
「あまり詳しくはお話できませんの。そのうちお耳に入りましょう」
少将が柔らかい物腰で躱すもので中将はそれ以上のことを尋ねられずに座を立つしかありませんでした。

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