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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百六話
第二百六話 幽谷(四)
僧都の母君の尼が歩けるまでに回復する頃には天一神(なかがみ=陰陽道に基づいた思想で、この神が居る方角を避ける=方違え)が動かれたので塞がっていた方角も解消され、一行は家路につくことを決めました。
僧都は比叡山に住まい、尼君たちはその山麓である小野と呼ばれる所に庵を結んでいるのです。
しかしながら問題は眠り続ける姫のこと。
僧都はこのように正体も知れぬ若い女人を御山まで連れ帰るのを外聞も悪いことと気が退けましたが、ここで見捨ててはせっかく繋がれた命が無駄になってしまいます。
それこそ御仏の教えに背くことと心を決めました。
二輌の車に分乗しながらも妹尼は浮舟の側を離れようとはしません。
陽が落ちて山の冷気が立ち込めると姫の体をさすって温めながら励ましの言葉を掛け続け、車を止めては薬湯などを飲ませてまめやかに世話をするのです。
それはまさに娘を思う姿、無償に愛を注ぐ健気な母のものなのでした。
そんな妹の様子を目の当たりにして僧都はやはり姫が目を醒まして後のことを鑑みるに些か心配ではありましたが、小野まで連れてきてしまったからにはもう如何し様もないのです。
「母上も回復されましたし、私は叡山へ戻ります。姫君のことは目を醒まされてから考えると致しましょう」
そのように言われると妹尼は姫を取り上げられるように感じて悲しく俯き、いっそこのまま目が醒めなければ、などとよからぬ考えも浮かぶのです。
それぞれに思うことはあるものの、眠れる姫は四月が過ぎ、五月が終わろうとしても一向に目覚める気配はなく、さすがの妹尼もこのままでは弱って行くばかりでは、とまた不安になるのです。
もしや姫には悪しき物の怪でも憑いているのではあるまいか。
思いあまり妹尼は兄の僧都に手紙をしたためました。
それは徳を積んだ兄みずからの物の怪調伏の祈祷を懇願したものでした。
僧都は修行の為と帝から招聘されてもそれを断り続けて山に籠っておられる御方です。
弟子たちは得体の知れぬ女人が法師の身の回りにあるのも心穏やかではいられぬものをわざわざ山を下りて祈祷までしてはけしからぬ噂も立ちかねない、と猛反対でしたが、
「私は御仏の教えに背いたこともあるが女色に関しては人に誹りを受ける謂われはない。齢六十を過ぎて非難されるようなことがあればそれはまた前世の因業としか思うほかあるまいよ」
と、大徳たちをいなして御山を下りられました。
果たして妹尼が喜び、兄を拝むように額づいて迎えたことは言うまでもありません。
恭しく姫が眠る仏間へと案内しました。
「さても不思議なことであるよ。見苦しくもなくこの清い御姿のまま眠り続けるとは、何か強い守護あってのことだろうか」
「兄上さまもそのように思われましょうか。この姫はまこと変わらずに美しいのでございますよ。御仏によく護られているのでしょう。しかしそれでも目が醒めぬのはきっと性質のよくない物の怪に憑かれているからですわ。どうぞ姫を助けてくださいまし」
「うむ」
僧都は法衣を改め、護摩を焚き、憑坐(よりまし)を据えると気を入れて加持祈祷を始めました。
弟子の阿闍梨と共に夜一夜加持を続けましたが、物の怪はなかなか姿を現そうとはしません。
さらに念を込めて芥子を焚き、明け方になるとようやく物の怪は姫から離れたのです。
物の怪を宿した憑坐は暗く落ち窪んだ目で僧都を見据えて言いました。
「この姫をようやく我が物にできると思うたに口惜しい」
「何者か」
「その昔わしも御仏に仕える者であったよ。修行の果てに命を落としたが、未練が多すぎてのう。禁じられれば禁じられるほどに女人への想いも募り、そんなわしを御仏は疎んじたか。気付けばこの世を彷徨う亡者となりぬ。人ではなくなりどれほどの時が経った頃か、山中にて美しい女人が数多住まう邸があったのでそこに居着いたというわけよ。とりわけ美しい女は首尾よく取り殺した。したが殺したところでその魂は我が物とはならぬ。そこでその女に生き写しのこの姫を得ようとした次第」
「むむ、なんともあさましき化生かな」
「僧都よ、その取り澄ましているお前の裡にも欲望はあろう。この眠った姫を欲しいとは思わなんだか。人とはそういう生き物なのだ。人の世は面白い。人の心ほど面白いものは無い。ちょっと囁くだけでたやすく揺れる。穢れの無かった美しい女の魂は嫉妬にまみれて己の深淵を知ったのだ。この姫も昼夜を問わず死にたいと思い詰めたでな、ほんのちょっと囁いた。あともう少しという処で観音菩薩などに邪魔をされ、最期はお前に打ちのめされるとはわしもつくづく運がない。この上は居ぬとしよう」
「待たれよ、せめてこの姫の素性を申せ」
僧都の呼びかけも空しく、物の怪はどこぞへ去ってしまいました。
それにしてもあの橋姫たちが物の怪に魅入られていたとは。
やはり薫が悔やんだように宇治という寂しい山里は若い女人の住むところには相応しい場所ではなかったようです。
ほどなくして浮舟は目を醒ましました。
まるで頭の中の靄が晴れたようにすっきりとした気分ではありますが、自分の顔を覗きこむのが見慣れぬ老人たちであるのはどうしたことか。
いまだ記憶もまばらで自分が何者であるのかもわからぬように思うのでした。
次回『令和源氏物語 宇治の恋華 第二百七話 小野(一)』は8月7日(水)に掲載させていただきます。
明日は『光る君へ』第29話の視聴感想文を掲載させていただきます。