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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百十九話

 第二百十九話 小野(十四)
 
僧都が急に山を下りられる事情とは、一品の女一の宮が物の怪に悩まされ、食事もようよう召し上がることもできない、ということからでした。
比叡の座主が今上に召されて祈祷などを行うもなかなか物の怪が離れぬので、物の怪調伏を得意とする横川の僧都も招聘された次第なのです。
日頃お主上のお召しを辞退してきた僧都でありますが、尊い女一の宮さまが煩われていらっしゃると聞くと気の毒でなりません。
加えて夕霧の左大臣や明石の中宮からも懇願され、微力ながら座主と共にお勤めしようと決意されました。
お供の阿闍梨たちと支度を整えておりますと母の大尼君から使者があり、これこれ、こう、と姫君が出家を望まれている旨を聞かされて驚いたのは僧都であります。
御仏に仕える身なれば必要以上の女人との接触を避けておられますので、縁あって助けた姫であってもその後文など交わすこともありませんでした。
まだうら若き身でありながらどうした御心で出家を望まれているものか、と手早く支度を済ませると山を下りられました。
御簾を隔てて透いて見える姫君の面差しはやつれているように思われます。
「姫君、如何お過ごしでいらっしゃいましたか」
「僧都さま、お久しゅうございます。御身によって救われましたご恩は終生忘れは致しません。どうか此度のわたくしのお願いも聞いてくださいませ」
「そのことですが、いったいどうした理由で急に出家なさろうとお考えなのでしょう」
「急に思い立ったわけではございませんの。尼君さまにはかねてからご相談申し上げておりましたが、その都度思いとどまるようにと説得されたもので」
「それはそうでしょう。尊いことでありますが、なまじ若い身で出家されて修行の辛さや俗世への未練で末まで行い澄ませねば却って罪障が深くなるというものです。尼君もそれを心配なさってのことと思いますぞ」
「わたくしはかつてこの世には生きていまいと決意した者でございます。幼い頃から物思いせずにはいられぬ境遇で母も尼としようかと悩まれた身の上なのです。そういう考えが常に付きまとっていたせいでしょうか、不思議とこの世への未練はないのでございます。どうか戒を授けてくださいまし。わたくしを救って下さったその御手でもう一度わたくしを救ってくださいませ」
深々と頭を垂れる姫君が哀れに思われる僧都なのです。
このように若く美しい姫君が世を厭うとはよほどのことがあったに違いない。
そういえば姫に憑いていた妖もそのようなことを仄めかしておった。
物の怪に魅入られる姫なれば、出家させねばその行く末もどうなるものか、と僧都には案じられるのです。
「わかりました。それでは一品の宮さまのご祈祷が済んだ七日後に御身に戒を授けましょう」
それでは尼君が戻って阻まれるに違いないと考えた浮舟は僧都に縋りました。
「わたくしは近頃たいそう加減が悪くて、これ以上病が重くなりましてからではせっかくの効験も及びませんでしょう。どうかこの機会にお願い致します」
激しく泣く姫が不憫で、ここまで強く望まれているのであればその願いを叶えてやろう、と僧都は心を決めました。
「よろしい。それでは今から戒を授けると致しましょう」
「僧都さま、ありがとうございます」
浮舟はありがたくて、手を合わせました。
 
「大徳たちよ、ここへ」
僧都に呼ばれてやって来た二人の阿闍梨はあの宇治院にて浮舟を発見した者たちでした。
「これより姫君の髪を下して差し上げる。よいな」
「は、はい」
突然のことに動揺する阿闍梨たちですが、僧都はもう心を決められているようなので従うしかありません。
「どうぞよろしくお願いいたします」
そうして御簾の隙間から差し出された髪は艶やかで黒々と美しく、女人に慣れていない僧たちなので剃刀を持つ手も震えております。
まずは僧都が形ばかり剃刀で髪を削ぐと、二人の阿闍梨は苦労しながらも長い髪をばっさりと切り落としました。
その束が箱に納められた瞬間、浮舟は心に浮かぶ方々にそっと別れを告げたのです。
草庵は人が少ないせいもありましたが少将の尼は阿闍梨となっている兄が僧都のお供として来られていたので自室で対面しておりました。
女房の左衛門も知人が訪れて来たので姫の御前を離れております。
女童のこもきは隣の姫の御座所から僧侶の読経が聞こえるのを不審に思って覗いてみると、姫君の髪はすっかり短くなった後なのでした。
驚いたこもきはすぐさま少将の尼に事態を報告しました。
それを聞いた少将の尼の顔色は青くなったり、赤くなったり、ともかく尼君が不在のうちにとんでもないことが出来したものだ、と慌てて姫君の御座所へと向かったのです。
浮舟は僧都の袈裟を着せ掛けられて剃髪後の着衣の式を行い、四恩を拝む式に移っておりました。
「さぁ、では。あなたをこの世へ送り出して下さった親御さまのいらっしゃる方角を拝みなさい」
「わたくしにはそれがわかりませぬ」
浮舟は母君へ詫びたくともその方角がわからぬことが悲しくて堪えきれずにとうとう泣いてしまいました。
「なんと考えの浅いことをなさったのです。尼君さまが戻られたらきっとお怒りになりますわ」
儀式に割って入ろうとする少将の尼を僧都は諌めました。
「姫君の尊い御志をそのように申すものではありません。尼君もまことの親ではありませんからこの人を責めるのはお角違いですぞ」
「そうおっしゃってもあまりに急なことで」
「これ以上の邪魔をして姫君の御心を乱してくださるな」
強く戒められた尼も仏弟子であるので徳の高い僧都にこれ以上のことは言えません。
 
流転三界中、恩愛不能脱、棄恩入無為、真実報恩者。
(過去・現在・未来の三界に流転していては恩愛の情を絶つことは出来ない。出家して無為に入ると報恩が出来る)
 
僧都が親と別れる辞親の偈(じしんげ)を唱えるのを、これでありがたい無為真如の世界に入ったというのに母君への愛情を断ち切れない悲愁ばかりが浮舟を苛むのです。
「美しい御姿を変えられたことを後悔なさってはいけませぬぞ」
「はい、僧都さま。ありがとうございました」
そうして浮舟はついに世を捨てたのでした。

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