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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百三十話

 第二百三十話 山風(十)
 
浮舟の一周忌が恙なく執り行われ、そろそろ己の心にもけじめをつけるべき、と薫は自身を律するのですが、儚く終わった縁をしみじみと嘆かずにはいられません。
明石の中宮は横川の僧都の話に出てきた女人がやはり薫君の愛された人ではないかと心に掛かるもので、どうにかそのことを伝えたいと考えておられました。
そんな矢先にその姫君の一周忌も済んだと聞いて、何気なく薫君を御前に召したのです。
 
春の息吹が大気に満ちた弥生のしめやかで静かな宵でした。
薫は明るい色調の直衣をふわりと靡かせて音もなく御前へと伺候します。
姉と弟といえども薫はどことのう人を拒絶するような雰囲気を持っているもので、こと愛された女人に関して不躾なことは聞けまい。
ましてや浮舟姫の入水には匂宮も関わることとでどう切り出してよいか思案する中宮なのです。
「薫、久しぶりですね。かの人の一周忌も恙なく済んだようでようございました」
春の宵というものはどこかせつなく薫はいつになく感傷的な気分で語り始めました。
「はい。もう姉上もご存知かと思われますが、私が通った姫は亡き八の宮さまの姫であらせられました。身分もそう高くなかったので宇治にて世話を致しておりましたが、あのような地に放っておいた私の咎でございましょうか。宇治は『憂し』に通ずる寂しい里でございます。聖の親王のような求道者でなければ耐えられぬ地であったでしょう。若い女人をそのような場所に住まわせるべきではありませんでした」
中宮は珍しく薫から事情を話し始めたのを打ち解けて嬉しく感じましたが、その女人が生きてあるかもしれぬことや息子の匂宮との経緯を自分がよそから聞いて把握しているのを告げるのは憚られるのです。
やはり小宰相の君などから自然に耳に入れるのが薫を傷つけずに済むのではあるまいか、と弟を慮ります。
「宇治のような山里は人もあまり住まない地ですので、きっと妖しの者なども跋扈しておりましょう。若く美しい女人があればきっと惹き寄せられずにはいられないでしょうね。かの人の身の上にもそのようなことが起きたのではないでしょうか」
何かを示唆するような中宮の物言いを薫はおや、と首を傾げましたが、何気ない語らいのうちのことですので深く追求しようとは考えません。
「そうですね、そのようなこともあるかもしれませぬ」
しんみりと俯く薫の様子は美しい。
この控えめな君に匂宮がした仕打ちを中宮は母として恥ずかしく、亡き人への追悼も何処へやらで再び浮名を流している息子を情けなく思召していられるのです。
薫君が退出すると小宰相の君を側に召してそっと耳打ちされました。
「薫が亡くされた女人のことをお話になられたのが気の毒で僧都から聞いた話を告げようかとも思ったのですが、確実なことは何もわからぬこととて控えました。あなたは事情も詳しいでしょうから、あなたの口からこのことを伝えてあげてくださいな」
「まぁ、姉弟の間柄であるお二人でも告げられぬことをどうしてわたくしが申し上げられましょう」
「宮が関わっていることなのでわたくしには憚りがあるのですよ」
中宮は姫君の生存を匂宮には知らせるおつもりはないのだ、と小宰相にはピンときました。
浮薄な皇子の振る舞いを苦々しく思召すのは誰あろうこの賢母であると思われると親としての心と姉としての心に板挟みになっていらっしゃるのであるなぁ、と小宰相は考えるのでした。

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