
令和源氏物語 宇治の恋華 第百八十七話
第百八十七話 翳ろふ(七)
「近頃私も多忙の身とて、近しくお話することもありませんでしたが、いつかお話ししようと思っていたことがあるのです。実は亡き八の宮さまには世間に知られぬ今一人の姫君がおられたのですよ。中君さまの異腹の妹姫ということになりますが、世に認められぬ存在であった為に常陸の守の継子となって浮舟のように曖昧な身の上でいられましてね」
「なんとそのような方がいらしたとはついぞ知らなかったぞ」
匂宮は驚いたように返しましたが、ここに至り浮舟の素性を知ったもので、その半分は真の驚きなのでした。
どうりで中君によう似た様子であると懐かしく感じたものだ。
「面差しがかつて愛した大君そっくりでいらして、どうにも世話をせずにはいられなく、当時私は女二の宮を賜ったばかりでしたので隠すように宇治の里に住まわせていたのです。そんな寂しい里に放っておいた私を恨んだのでしょうか、どうやら他に通う男もできたようで、ですが本妻と定めることは出来ぬこととて責めるわけにも参りません。それはそれと考えて鷹揚に構えていたのですが、先頃儚く身罷ってしまいました」
些か挑発的に見据える薫の目には涙が滲んでおりました。
それを見て匂宮は自分の流した涙が浮舟の為であると薫も悟ったのだと知りました。
薫は宮に見られるのもみっともないと涙を堪えようとしましたが、一度流れた涙を留めるのは困難で、涙が流れるほどに感情も大きく揺さぶられてゆくのです。
「大切な方を亡くされたとは聞いていたが、憚られるので控えていた。それは心からのお悔やみを申し上げる」
いつになく言葉少なで他人事のように装うも宮の声も悲しみに揺れているのでした。
そんな姿を見て薫はいつになく挑発的な気分になるのです。
それはそれほどに浮舟を想っていたということの証か。
「もしも宮がお会いになれば我が物とせずにはいられぬほど美しく、かわいい女でございました。いや、もしやこちらにも来たことがあるというのですでに逢っておりましたかな」
すべてを知る上であてこする薫に宮は何も言い返すこともできません。
薫は真剣に浮舟を愛していたのだ。
自分はその愛を盗んでしまった。
己の気持ちに偽りがない以上恥じ入ることも無いが、どうにも薫の目をまっすぐには見られぬ。
この男を前にして自分は浮舟の為に涙することも許されないのである、と痛感した宮は初めて薫にすまないと心裡で詫びたのでした。
「取り乱して申し訳ありませんでした。つまらぬことを申し上げましたな。お気に病まず養生なさってくださいませ」
薫はそれだけ言うと居たたまれずに座を立ちました。
思わぬ己の中にある嵐の烈しさに最も驚いているのは薫自身なのです。
人非木石皆有情
<人木石にあらざれば皆情け有り>
(人は木や石のようではないものであるから、誰も恋慕の情を留めることはできない)
思えばその日は四月の十日。
浮舟を京へ迎えようと計画していたその日なのです。
今更ながら浮舟がもう居ないということが重くのしかかり、情を断ちきれぬ女々しさと薫は自嘲したのでした。
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