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何かを学ぶと、何かを失った気持ちになる。

私は、学ぶことが好きだと思う。

中学生の頃から勉強は好きだったし、本もよく読んだ。仕事を辞めて、ニートになった時は、何もすることがなくて、朝から晩まで本を読み漁って、年間300冊ほど本を読んだ。

自分が「知らない」世界に触れることが何より楽しかったし、ワクワクした。

もちろん、学ぶということは、書籍や文字からだけでなくて、「体験」や「経験」からも得られると思う。

「こういう言い方をすると人は傷つくんだな」ということも、「この依頼の仕方をすれば上手くいくのか」ということも、一種の学びだと思う。

昨年、私はこんな言葉に出会った。

「You have learnt something. That always feels at first as if you had lost something.」

これは、ジョージ・バーナード・ショーの言葉で、訳すと、「何かを学びましたな。それは最初はいつも、何かを失ったような気がするものです」という意味になる。

初めてこの言葉を見た時は、「学びって得るものではないの…?」と疑問に思ったのだが、最近になってこの言葉の意味を理解できるようになってきた気がする。


特にそう感じたきっかけは、最近、友人とお茶をしていた時のことだった。

とある場において、自分のニーズが満たされないと感じた出来事について話していた。友人に話しながら、私はこの場で自分のニーズを満たして欲しい、きっと満たされる場である、という期待を持っていたんだな、という気づきもあった。

一通り話し終えた後に、聴いてくれていた友人が「ゆかさんは、本当に丁寧に話を聴いてくれる人たちに囲まれているんですね。」という感想をくれた。

その言葉を聴いて、ハッとしたのだった。

私がその時に満たされなかったと感じたのは「自分の話をもっと深掘りして欲しかった」「共に眺めて欲しかった」ということだったのだが、それは確かに、自分の身の回りに、深堀りをしてくれて、共に眺めてくれる人がいつもいるからそう思うのだろう、と思った。

つまり、私は他者から話を聴いてもらうことも、共に眺めてもらうことも、深堀してもらうことも、学んでいる状態だったのだ。

その学びを得ているからこそ、そうじゃなかった時に、感情が揺れ動く。違和感に感じたり、時に悲しくなったり、モヤモヤしたり。

学ぶということは、学ぶ前の自分にはもう戻れない感覚に近いのかもしれない。それはある意味、学ぶ前の自分はすでに失っていて、新しい自分になっていること。

友人が、「今、カウンセリングを学んでいるんですけど、いつも講師の先生が帰り際に言うんです。みなさんこんなこと学んでいるけど、外の世界に出れば、ここまで話を聴いてくれる人はなかなかいないですからね。勝手に絶望しないでくださいねって。」という話をしてくれた。

まさに自分は、この先生が言ってくれている状態に陥っていたな、と思う。
新しい世界を知って、学んで、そうじゃない世界を見て、勝手に絶望する。

なんて身勝手な話だ。

でも、これがきっと「学ぶ」ということなんだろうなとも思った。学ばなければ絶望することだって、違和感を感じることだって、感動することだって、何かを感じることだって、きっとない。

学ぶとは、心が動くことなのかもしれない。

そして、学ぶということは、一種、学ぶ前の自分を失うことにもなり、絶望することに近いのかもしれない。

けれども、それ以上に、自分のコンテクストが広がる感覚を持つ。


やっぱり、私は学び続ける人生を歩みたい、と思う。他者と共に。

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