『「愛」するための哲学』【基礎教養部】
本記事は,JLAB図書委員会の活動の一環で作成されたものです.
とりあえず感想
この本のタイトルを見ればわかる通り.そして僕のいくつかの記事からわかる通り.僕は恋愛についてフラフラと悩み続けており,手当たり次第に「女」とか「愛」とかの本を読んでは,「うーんうーん」って唸ってのであるが,今回もまあその一環である.
これまで記事にあげてきた本は,だいたいは学者が書いた本であり,それゆえに読みごたえもあって学ぶことも多かった.
しかし今回のこの本は別の意味で「うーん・・・」となるようなものであった.書評にその理由を書いたのだが,ここでもちょっと触れておく.
まず,この本に書かれていることは「哲学的」ではない.タイトルから勘違いする人が出てくるのでやめてほしい.筆者が思う理想の「愛」について,理想でない「愛」を(かなり強い言葉で)批判しながら説明しているだけである.しかもそれほど論理的でもない.いろいろな哲学者の言葉を引用しているのもちょっと腹立つ笑
僕は,全7章のうち,流し読みで5章の途中まで読んで,後は読まなかった.
第3章について
唐突に内容について触れる.
第3章のタイトルは「真の経験が「愛」を育てる」である.
ここでいう「経験」とは,「自分の内側に変化が起こること」と定義している(と読み取れる).そして,経験が自分に変化を起こすためには,物事に「誠実に全身で取り組む」ことが大事だと述べている.
ここで筆者は「”非”経験」の例として,市販の恋愛マニュアルに従ってデートすることを挙げている.これが非経験である理由は,マニュアル通りのデートは相手をコントロールすることにほかならず,それはデートや恋愛と呼べるものではなく,なにより自分の内側(心)が動いていないから,だそう.
そして「誠実に全身で取り組む」ことの例として,学校のテスト範囲である古典小説を1週間かけてじっくりと自分なりに読む(その勉強法の結果テストの点が良くなくてもよい)ことを挙げている.その勉強をした生徒は,読みながら感動を覚えた(つまり心を含めて全身で読んだ)ことから,「誠実に全身で取り組んだ」として称賛されている.これこそが「真の経験」と呼ぶのかな?たぶん(読み取れなかった).
一方で,要領よく勉強した生徒は「経験」をしていないことになるらしい.高得点を目指してテストという物事を処理しただけだから,と言っている.
僕の解釈ではおそらくここが3章の一番大事なところである(これ以外の部分では,「真の経験」をするための方法論を書いていて,哲学としてはそれほど重要ではなさそう).
いかがだろうか,僕は正直何を言っているのかあまりわからなかった.自分の内側に起こる変化とはどのようなものなのか.単なる気持ちの変化なのか,新たな記憶が刻み込まれることなのか,思考の末に何かしらの結論にたどり着くことなのか.どれをもって変化と言っているのか.
古典小説を丸々読んでも喜怒哀楽を感じなかったら,それは経験ではないのか?知識を得て,教養を身に着けたのに?
テストの点を取るのに最適な勉強方法をした学生は,それが最適だと学んだわけだが,それは経験ではないのか?知識を得て内側で変化が起こったとは言わないのか?
マニュアル通りのデートをして,うまくいかなかったから反省したら,それは自分の内に変化があったことにはならないのか,経験ではないのか?
どうも筆者の主張を補助する例を挙げられていないように思うし,その主張を際立たせるための「ダメな例」も何がダメなのかイマイチ伝わらない.
筆者は第3章で,マルティン・ブーバーの言葉を引用している:
つまり筆者が挙げた非経験の例は,「自分の内側で何も起きていない例」ということになるが,僕は全くそうとは思わない.
おそらく「愛」などというものをテーマにしてしまったがために,「内側=感性」と勝手に置き換えて,何か感性的な成長,精神的な成長を得られた出来事が経験であると主張したいのではないだろうか.
まあ要は,この本はエッセイである.
とりあえず終わり
特にこの本から「経験」は得られなかったので笑,次回はおそらく別の本の記事になるだろうと思います.【続】はありません.